おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロです。セーラー服おじさんの小林秀章さんや、ツインテールプロレスラーのレディビアードさんってご存知ですか?どちらも有名なヒゲ女装家(?)なんですが、哲学を勝手に感じるんですよね。
セーラー服おじさんの小林秀章さんとレディビアードさんについて
セーラー服おじさんの小林秀章さんとはこちらの方。修士課程を経て印刷会社へ。平日は画像処理ソフトウェアのエンジニアとして働いている、れっきとした「カタギ」の人で、CNNのインタビューにも英語で応える知性派。たまにテレビなどに出ているのでご存知の方もいらっしゃるのではと思います。
そして、こちらはビアちゃんこと、レディビアードさん。
彼は男性性(ヒゲとか頭髪とか)を隠さずに女性装をしているという特徴がありますね。イチかゼロ(男か女か)を選んでいるのではなく、「私は何者でもなく、ただ私自身にすぎない」みたいな立ち位置が感じられて、僕はお二人が結構好きなんですよね。
自分のために女装をするレディビアード
一般論でいうと、男性による女性装って、社会的には受け入れられにくい行為じゃないですか。彼らはどうして女装をするようになったんですかね。レディビアードさんについては、こんな記事があります。
特に印象に残ってるくだりはこれ。
思春期って学校がすべて。しかも、僕は男子校に通っていたから、マッチョイズムの観念が強くて、「男らしくいなければ」という雰囲気があった。学校的には「タブー」なんだよ、女装って。
ビアちゃんは「男らしくいなければ」から脱却する手段として女装してると感じられる一文ですよね。
でも、転機があった。学芸会で女装をすることになったんだ。それまでは、友だちの前でしかはっちゃけてこなかったけど、リーダー格の前でもその姿を見せる。正直、いじめられるかと思ったけど、めちゃくちゃウケた。
そうそう。むしろ受け入れてもらった感じ。ぶっ飛んでしまえば逆に楽しんでもらえる。縮こまっていても何も変わらない。そう思ったよ。
これもそうで、「女性になりたい」という動機というより、「女装すると受け入れられるから」という、集団の中での生存戦術っぽい理由なのが面白いところ。
局外に生きると他者は寛容になる
いじめられてたビアちゃんが他の生徒に受け入れられたのは、彼が女装によって「土俵」から外れた局外に身を置いたからではないかなと思います。
以前、マツコ・デラックスがこんなことを言っていたのを覚えているんですけど、「局外にあるもの、いるものに対しては、人は異常に寛容になるところがある」んですよ。
ひとつ身近な例えを。
居酒屋で働いている外国人の店員さんの言葉づかいがたどたどしくても「まあしょうがないか。外国人さんだしね」と思えるじゃないですか。でも日本人の店員さんが同じ言葉づかいをしたらどうでしょうかね。
「この店は店員の教育がなっとらん!」
と思う人もいるかもしれないじゃないですか。
自分と同じ土俵にいる人(日本人店員)には寛容になれなくても、その局外にいる人(外国人店員)だったら寛容になるって状況は確かにあります。マツコのようなオネエキャラがテレビで毒舌コメントを言っても許容されるのは「まあ、局外にいる者だし、仕方ないな」と思う人はいるでしょう。
セーラー服おじさんの小林秀章さんも、初めて女装して外出したときのことをこう振り返ってますね。
やってみると、何も起きなかった。改札を通るとき、駅員は何も言わなかった。電車に乗っても、みんな普通で波風は立たなかった。こんなにスルーされるのか? これが都会なのか?と驚いた。
触らぬ神になんちゃらの法則とでもいうのか、局外にいる人はスルーもされるんですよね。だからこそ、周囲からの圧力や期待を逃れて、最大限に自分を表現できるようになるわけですね。
土俵を変えて局外に生きるということは確かに勇気がいることです。しかし生きづらさを感じる人にとって、一つの生きる指針になりうるんじゃないかと思います。
僕もヒゲ女装しようかな……(ボソッ)