おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です!
週末のエモブロです。明日で阪神淡路大震災から27年目を迎えます。震災発生時に神戸に住んでいたのですが、インフラ復旧の見通しが立たなかったので、実家(大分)に帰りました。神戸から大分に帰ると怒りや不安に襲われるようになったんですよね。
しばらく神戸にはいられない
当時ぼくが住んでいたのは神戸市須磨区のニュータウンだったので、海側の被害が大きかったところ(長田や東灘)と比べると、被害はほぼ皆無でした。近所では震災当日の朝、犬の散歩をしている人がいたくらいですからね。
ただ電気や水道、ガスといったインフラがまったく使えませんでした。電気は震災当日の午後には復旧したのですが、ガスと水道の復旧の目処がたっていなかったんですよね。なので自衛隊の給水車から水の配給を受けたり、トイレの洗浄の水には近所の小学校のプールの水(近隣住民向けに開放していた)をもらいにいったりして、震災後1週間ほど神戸で過ごしました。(やっぱりすごく不便でした)
震災後1週間ほどして、大学の期末試験中止と長期の休校が正式に決まったんですよね。それで「神戸にいても不便だしやることないな」と思い、実家に引き上げることにしました。
ただし鉄道網も寸断されていましたから、住んでいた場所からバスで垂水まで行き、垂水からJRで姫路に行って、そこから新幹線で九州へ帰るという旅程でした。(一緒に帰省した関東の友達は、岡山まで一緒に行き、岡山から飛行機で帰省しました)
大分の街を歩くと怒りが湧いてくる
そうして5時間ほどかけて大分へと戻ってきたのですが、大分駅前から自宅まで歩いていると、街が歪んで見えるんですよね。歪むというか傾いているというか、電柱がまっすぐ立ってないように見えるんですよ。
これはたぶんですけど、震災で傾いたり倒れたりした電柱、家、建物を散々見てきたので、まっすぐ立っているものがうまく識別できない状態だったんじゃないかと思うんですよね。自宅の周りはそうではなかったんですが、友達の安否確認や友達の部屋の片付けなどで被害の多かった地区に行くことがあったので、その時の印象が強く残っていて、何事もなかった「平時の街」に違和感を覚えたのだと思います。
勝手なもので「神戸じゃみんな大変なのに、大分の街を歩いている人たちは気楽そうにしている!」と怒りのようなものも湧いてくるんですよね。大分の人たちにはなんの罪もないんですけど、勝手に被害者意識を高めていたのだと思います。
自分勝手な被害者意識といえば、実家にいても電話のベルがなるとビクっとして、なぜか電話の主に怒りが湧いてくるんですよ。「電話なんかかけてくるな!」って。ひどいですよね。用事があって電話かけてきているのに。
神戸へ戻るときに大きな不安に襲われる
大分に帰ったとはいえ、実家の居心地もよくなかったですし、やがて大学の授業も再開することになったので、神戸に戻ることにしたんですよ。確か3月の中旬くらいだったと思いますけれども、駅で帰りのきっぷを買うとすごく大きな不安に襲われたんですよね。「またあそこへ戻るのか」「もう一度大きな地震がきたらどうしよう」という気持ちが湧いてきたというか。
新幹線で帰る予定だったのですが、「あまり速く神戸には戻りたくない」という気持ちになって(じゃあ大分にいればいいじゃないかと思うけど、実家にも居たくなかったんですよね)、なぜだか普通(各停)で大分から神戸まで戻るという意味不明な行動をしました。
今考えても意味不明なんですけど、当時はPTSDみたいな症状を発症していたんだろうなと振り返って思います。もちろん医師から正式に「PTSDですね」と診断をされたわけではないので勝手な想像ですけど、今までに経験のしたことのない怒りや不安がやってきたのは、やはり震災がトリガーだったんじゃないかと思うんですよね。
被害がひどかった地区に住んでいたわけでもないし、避難所生活を長く過ごしたわけでもないお前がPTSDだなんて称するなという声が自分の中からも聞こえてきそうですけど、やっぱりあの地震はぼくにとっては、とても怖かったんでしょう。その「怖かった」という気持ちをうまく消化することができず、自分の中で抱えてしまったのではないかと思います。あの頃のぼくは「自分は強くなければならない」と思いこんでいましたからね。
27年も経ちますけど、その時の気持ちはまだ鮮明に思い出すことができます。