おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロです。最初の人事査定で、同じ支店にいた同期のうち、ぼくだけが低評価だったことがありました。それが「評価」だったわけですが、そこから「何者かである自分を探す旅」を繰り返すようになりました。
ぼくだけが人事査定で低い評価だった
ぼくが最初に勤めた会社の最初の人事査定で、同じ支店にいた同期のうち、ぼくだけがB判定だったんですよね(他の同期はみな最高のA判定だった)。まあ課せられていた売上目標も未達だったし、上司には楯突いてばかりいましたから、評価が低いのは今思えば当然なんですけど。
でも当時のぼくは「あいつ(ら)よりぼくのほうが優秀なのに、どうしてぼくだけが評価が低いんだ!」と憤慨していました。まあ嫉妬にほかならないのですが、同時に会社に対しても恨みを募らせていました。で、その評価の1年後には会社を辞めたしまいます。もちろん辞めた理由はこの人事評価結果だけではないですけど、一因であったことは間違いありません。
モラトリアム気分が抜けず「何者かである自分を探す旅」を繰り返す
で、結論としてその先のぼくの人生を一言で表すと、「何者かである自分を探す旅」みたいな感じでしたよね。注目を浴びているITベンチャー企業に転職をしたあと、外資系企業に転職をしました。そこでも「何者か」になれた実感を得ることができず、次は資格取得に走り、そしてコンサル会社に転職をしました。それでもまだ足りないという思いが強く、今度は学位の取得に走りました。その後、独立をするわけですが、この節操と堪え性のなさには自分でも呆れています。40歳にもなってまだ「何者か」になることを諦めきれなかったんですよね。
「周囲の同僚はもっとうまくやっているのに、ぼくだけが評価されなかった」と、他人と比較をして落胆したところに端を発しているわけですが、もとはというと幼い頃から自己不全感に包まれていたところにも原因があるのでしょう。自己不全感を払拭するために、わかりやすく対外的に誇れるなにか――それは往々にして指標や数値や肩書で示すことができるもの――を実現した「何者か」になることが、自分の幸せであると思いこんでいたんでしょうね。
「何者か」であるということが、自分の「幸せ」につながるとは限らない
ただ、ここまであがき続けても「幸せ」になれなかったアラフィフのおじさんが振りかえって思うのは、対外的に誇れるなにかを実現した「何者か」であるということが、自分の「幸せ」を保証するとは限らないということなんですよね。でもぼくは根っから自信がないので「どこかにもっと大きくて優れたはずの自分がいるんじゃないか?」って思っちゃうんですよね。
たしかに「何者か」でになることと自分の幸せは別の話ですし、「何者かになりたい」と強く願いすぎることが生きづらさを生んでしまう側面もあります。しかしそれと同時に、この気持ちが、自分の生き方を自分で選択できるという自由な時代の特権でもあり、それは若者の成長を動機づける一つの要因になりうることは強調しておきたいと思います。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」なんですよね。