おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
最近、ホラクラシー組織やティール組織に興味津々です。僕は大企業経験が長く、ガチガチのヒエラルキー組織で働いてきたためか、ホラクラシー組織やティール組織のような、フラットな組織に対するあこがれがあるようです。これらの組織について調べていて驚いたことの一つに「明文化された経営理念さえも手放す」ということがあります。これについてちょっと僕なりの意見を書きたいと思います。
明文化された理念を手放す会社
明文化された理念がない会社として最も有名なのが、ダイヤモンドメディア株式会社でしょうか。ホラクラシー組織の実践企業として有名ですね。
そのほか、福岡の株式会社ブレスカンパニーも、やはり理念を手放した会社のようです。
理念が重要というのは、これまでの経営の「常識」であった
一般的に、経営の世界では、理念は最も経営において重要なものであり、これの浸透こそが経営成功のカギである、というようなことをよく言われます。なぜこのようなことが言われるようになったのか、そのきっかけなどは不勉強なのですが、僕が知る限りは、GEのジャック・ウェルチの影響が強いのではないかという気がします。(ウェルチはMVV、すなわちミッション、ビジョン、バリューといいましたが)
一方、IBMのルイス・ガースナーは「今現在、IBMに必要なのはビジョンではない」と言い、ビジョンよりも実効性の高い戦略が重要だ、と話したこともありました。もっともガースナーは、当時のIBMの方針が時代遅れなものだったので、改革が必要な時期にはその方針をいったん棚上げにする、という意味でいったのだと僕は解釈しています。それが「今現在」という言葉に現れていると思います。実際には、新しい企業文化(スピーディな意思決定)を構築する際には、新たな方針を明文化しているので、ガースナー自身も理念を完全に手放すことを意識していたのではないと僕は思っています。
なぜ理念を手放すのか?
ところが最近のホラクラシー組織の実例を見ていると、ダイヤモンドメディア社やブレスカンパニー社のように、理念を手放しつつある会社が見られるようになってきました。これらの会社はどうして理念を手放しているのでしょうか。ブレスカンパニー社のケースを考えるときに、次のような記事がありました。
僕なりに重要だと思うところを引用したいと思います。
坂東の見解として、ホラクラシーとは「リーダーである自分の方が正しい。自分の方が優秀。」という“思い込み”との決別。らしいので、理念は坂東にとって「自分の正しさの押し売り」だったのでしょうか?
手放した理由の一つとして考えられることは、理念はリーダーの価値観の押し付けになる可能性がある、ということでしょうか。一般的には、理念は整った聞こえの良い言葉で語られる正論が多いので(例えば「お客様第一」など)、それ自体に反論することは少ないでしょうが、場合によってはありえます。例えば「お客様に完成度の高い製品を提供する」という理念があったとします。一方で、従業員の中には「完成度は高くなくても、スピーディに納品してほしいというニーズがある」ことに気付いている場合はどうでしょうか。リーダーの理念が、顧客のニーズと合わないことになりますね。このような場合は、従業員はリーダーの理念に対する葛藤を覚えるはずです。
もう一つ、記事中から引用しましょう。
理念のうちいくつかは腹落ちできていないものがあったのですが、ブレスカンパニーの社員である以上、理念を遵守しなければならないという圧力は感じていました。その状態は居心地の悪いものだったかも知れません。
別の可能性としては、理念を順守できない自分に罪悪感を覚える可能性ですね。上記の例を使いますが「お客様に完成度の高い製品を提供する」という理念があったとしても、それが常に順守できるわけではありません。不良をゼロにすることは、理想ではありますが非現実的ですよね。
僕自身が体験した経営理念の逆効果
僕自身の経験からも、経営理念の逆効果だなあと思えるシチュエーションはいくつかありました。
例えば、経営者自身が理念から逸脱した行為をとる場合があるということです。例えば「従業員のワークライフバランスを守る」と言っておきながら、過度な残業を「やむを得ない」として容認する経営者がいました。確かに経営者の観点でいうと、常に100%の状態で、ワークライフバランスを守ることはできないでしょう。状況によっては、やむを得ず過度な残業が求められる時期もあるはずです。それは理解できます。しかし従業員の立場から見ると「ワークライフバランスを守るのが理念じゃないのか?」という気持ちを抱いても仕方ありません。理念は、その言葉が正論で、整っており、聞こえが良いことが災いしてか、理念を守りがたい状況になった時に、従業員にかえって大きな不信感を与えかねないように思います。
僕自身も過去に勤めていた会社で感じたことですが、「お客様のために一丸となって……」というような理念があるにもかかわらず、経営者や上司が、厄介な仕事を下に丸投げしようとしたり、上の決定を力づくで押し付けたりするのを目の当たりにして幻滅したことは一度や二度ではありません。
従業員が「悪い」価値観を抱くことはないと信用することが「理念を手放すことの意味」ではないか
もっと根本的な話をすると、理念の難しさは、それを現場第一線の従業員のすみずみにまで浸透させることが困難であるということがあります。どんなに理念を重視している会社であっても、「わが社では完全に浸透しています」と胸をはって言える会社はそうそうないでしょう。そもそも理念とは、他人である経営者の価値観なのですから、それを100%の従業員が自分のこととして理解することは困難です。
どんなに素晴らしい理念であっても、他人の価値観を内在化することは難しい。そうであれば、従業員一人ひとりが持っている価値観を重視するほうが、ある意味では「楽」だと言えます。そうすると、従業員が怠けるのではないかとか、保身に走り、顧客やほかの社員のためにならないような行動をするのではないかと心配になるかもしれません。それは確かに起こり得ることだと思います。
しかし、そのような「悪い」価値観を従業員が抱くことはないと信用することができたらどうでしょうか。従業員は、自分の信じる価値観のままで仕事に臨むことができます。信じる理念は自分の中にあるのですから、経営者や上司自身が理念から逸脱している!という気持ちも起きないでしょう(だって理念は、個々の価値観に任されていますからね)。
むろん、怠惰で、調和を過度に乱し、利害関係者に不利益を与えるような行為は何らかの形で責任を負わす必要はあります。そのような仕組みを作りながらも、原則としては従業員がどのような価値観で仕事に臨んでもそれを信用して任せきるということが、明文化された経営理念を手放す意味ではないかと思います。
多様な価値観を受け入れようとするこの時代において、経営者だからといって特定の誰かの価値観を浸透させることは困難になっているのかもしれません。ただちに明文化された経営理念を手放すことがよいとは言いませんが、そのような選択肢があることは留めておく価値はありそうですね。