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【当社のご近所紹介】幻の津知川を追え!

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おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。

当社の近所(深江)には、昭和40年代まで津知川という川がありました。都市化に伴い、暗渠化されてしまい、今となっては川の面影はほとんどありません。当時の地図や戦後間もないころの航空写真をもとに津知川を探してみると、昔の深江・芦屋の姿が浮かび上がってきました。

津知川とは

津知川は、山芦屋町あたりから芦屋市の三条町・清水町を経て、神戸市の深江南町にて大阪湾に流れ込む河川です。昭和45年頃に宅地化の影響で暗渠化されたようですが、それまでは地域を流れる川であり、周辺の田畑を潤す存在として、太古の昔から人々に利用されてきたようです。

僕が歩いて調べた結論としては、下記の図のように流れていたのではないかと考えます。

(赤い線は川筋であることがだいたい目視確認できた部分。青い線は、地下などに潜り込んでいて目視確認ができなかった部分)

推定ルートが2つあるのは、JR線より山側では河川の流れがわかりにくかったためです。昭和20年代に撮影された航空写真なども見たのですが、どうも河川があったと思われるところの直上に住宅などが建設されていて、川を追うことができませんでした。

おそらくルート①が本流で、ルート②が支流だったのではないかともいます。ルート②はもしかしたら水無川か、耕作用の用水路(中世~近世にかけて芦屋川から分水をしたもの)だったかもしれません。

深江本町の河口部分

実は河口部分には今でも水門があり、はっきりと川だとわかります(早朝で暗く、写真がはっきりしませんが?)

海側の埋め立て地(埠頭)から見ても、水門があることがわかります。

今ではレジャーボート置き場になっていますが、昔はこのあたりに造船所があったそうです。昭和中期まで深江は漁業が盛んな町だったようで、そういう漁船の建造・メンテナンスをするための場所だったんでしょうね。

深江南町部分を歩く(河口から国道43号線まで)

河口から上流にさかのぼって歩きます。実はこのあたりは、昭和10年頃の住宅図があります。以前訪問した深江生活文化資料館で展示されていた図ですね。これを見ると、当時の家の並びまでがわかります。ちなみにこのあたりは、川に沿って道もあり、深江と津知を結ぶ生活道路だったようです。

河口から川のあった部分を望みます。この下にはまだ川が生きています。

かつて伊丹酒造があったと思われる場所は、今は駐車場になっています。駐車場の名称に注目ですね。「伊丹駐車場」となっています。今でも伊丹さんの土地なのでしょうか。

昭和10年代の住宅図に卍のマークがあったので、お寺でもあったのかな?と思って調べてみると、小さな祠がありました。これのことかもしれません。

ちなみにこの祠の、道を挟んで反対側には、橋跡を示す碑があります。写真ではわかりにくいのですが「津知川神楽橋跡」とあります。この辺の東側(現、深江南町1丁目)はかつて「神楽町」と呼ばれていたようです。神楽町には深江文化村があり、多くの外国人が住んでいました。(大阪から見た場合、深江は近郊型の高級住宅地だったようです)

川沿いではありませんが、川の少し西側、43号線の少し南側のあたりに「津知墓地」があったようです。今は住宅・駐車場になっています。駐車場にはNTTのRT-BOXがあります。「深江中継局跡」と書いていますね。墓地が移転された後は、NTT(電電公社)の施設があったのでしょう。

そして43号線と津知川の合流地点です。ちなみに昭和20年ごろにはまだ43号線はなく、西国浜街道に津知川を渡る橋が架かっていたようです。住宅図を見ると、このあたりに「宮川ダンツ工場」と書かれています。ダンツってなんだ?と思って調べてみると、正確には「緞通」のことのようで、中国製の絨毯のようなもののことだそうです。

ここからは邪推ですが、もしかしたら津知川のそばだからこその絨毯工場だったのかもしれません。色を染めるためには水が不可欠ですからね。

深江本町から津知町(43号線から2号線)

旧西国浜街道(現43号線)を超えると、そこからは深江本町です。ちなみにかつてはこの交差点が、西国浜街道の分岐点(本道と深江の集落へと向かう道の分岐)でした。二つの道は、今の神戸大学深江キャンパス(海事科学部)正門前付近でふたたび合流します。

かつての分岐点には、今は公園があります。この公園、面白いことに、川に対して高低差があります。写真の段差の上を走るのが、旧津知川です。この高低差は、ちょっとした堤防のようなものがあったからかもしれません。神戸の六甲山南側の河川は天井川になりやすいので、川が高くなる傾向にあります。

このあたりから国道2号線にかけては、昭和20年代ごろは田畑ばかりだったようです。やがて阪神電車の踏切が見えます。阪神電車は、各踏切に名称があるのですが、ここの踏切はズバリ「津知道」です。

津知川は芦屋市に入ります。ちなみにこのあたり、下記の地図を見ればわかりますが、神戸市と芦屋市の境界線が複雑な形状をしています。このあたりは、16世紀中盤(三好長慶政権のころ)から18世紀中盤(江戸時代)という長期にわたり、村の境界をめぐって訴訟を繰り返したという歴史があります。それが現在の神戸市と芦屋市の境界にも受け継がれているのですが、この複雑な境界線はその頃の名残かもしれません。

不思議なマンションを見つけました。道に対して、建物の立ち方(駐車場の入り口のライン)が平行ではありません。地盤の関係なのか、土地の権利の関係なのか、それとも別の理由なのかはわかりませんが、ちょっと不自然ですよね。

そして日吉神社につきます。この神社も(少なくとも)戦国時代から続く神社です。道の形が湾曲していて、川の面影を感じさせます。

ここから先は国道2号線に突きあたります。旧西国街道ですね。昭和20年代には市電が複線で走っており、現在と同じくらいの道幅だったと思われます。

清水町・清水公園(国道2号線からJR線)

国道2号線を渡ると、そこは芦屋市清水町です。震災で大きな被害を受けたところの一つですね。ここに「清水公園」というのがあります。地名からも、水に由来のある土地であることがわかりますね。

この公園は親水公園になっており、当時の津知川を再現しようとしているのかもしれません。公園には川の流れがあり、ビオトープもあります。ビオトープの風景は、もしかしたらいにしえの津知川の姿に近いものだったりして。

清水公園の案内板です。これを見ると、ここの川を「東川」と呼んでいます。えっ?津知川じゃないの?と思いましたが、調べてみると芦屋川から分水した用水のことを東川用水と呼んでいたようです。(もしかしたら推定ルート②が東川用水かもしれない)

このあたりは中世から近世にかけて、芦屋川の分水によって耕作をしていたようで、今の本山や深江、青木のあたりくらいまで芦屋川の分水をうけていたようです。そのため、土地の境界争いだけではなく、水の利権争いもしょっちゅう起こっていたようです。

清水公園を北上すると、すぐにJRの線路に突き当たります。めちゃめちゃちっちゃいですが、川を渡る鉄橋になっていますね。

推定ルート① 三条町から山芦屋町(国道2号線以北)

さて、このあたりから津知川を追うのが難しくなります。暗渠の上に住宅が立っているようでもあり、水無川区間(地表を水が流れず、伏流水として地下を流れている区間)のようでもあり、とにかく川が続いていないのです。ちょうど六甲山の扇状地に該当する部分でもあり、突如水が湧き出すポイントなどがあったのかもしれません。

JR線からすぐ北のところまでは流れが確認できるのですが、このあたりから水路は地下に潜ります。

次に川筋があきらかになるのは、三条公園の南側で阪急電車の高架の北側です。

ここから北側(山側)、三条公園の東側では川の流れが明確です。そしてこの先、また地下にもぐっているようです。

この川筋と思われるものが再び姿を現すのは、山芦屋町のかなり上にのぼったところです。写真ではあまり伝わりにくいですが、かなり急峻な谷になっています。しかしこの谷がどこかにつながっている様子がないことから、この谷の崖の部分から水が湧いているのかもしれません。

谷の方向にそって歩くと山手中学校、そして芦屋市聖園(墓地)に続きます。ここで川が見えます。

川は地下に潜っています。こんなところを暗渠にするとは思えないので、伏流水になっているのかと思います。

ところでここは、弥生時代の高地性集落である会下山遺跡のふもとにあたります。弥生時代の人がここに集落を構えたのは、水の便がよかったからという側面もあるのかも。

推定ルート② 三条八幡神社から照楽寺

ところで、昭和20年代の航空写真を見ていると、どうもJR線を超えたあたりから、川が分岐しているように見えるのです。川の流域にそって緑地のような茂みが、推定ルート①方向と推定ルート②方向にあるように見えます。

推定ルート②にそって歩いてみました。はっきりと川筋は見えますが水はありません。水無川なのか、用水としての役目を終えた名残なのか。

反対側を向きます。川っぽい湾曲ですよね。このあたりから川筋は地下に潜っています。

このあたりはあまり痕跡らしきものがなく(水無川だからか?)自信がないのですが、山手幹線を越えたあたりに、いかにも川筋という感じの怪しい路地があります。

道に沿って歩くと、前方に阪急電車の線路が見えます。結構しっかりした溝がありますね。

阪急電車の線路の向こうには、三条八幡神社があります。

神社か……と思って境内を歩いていると、面白いものを見つけました。境界碑です。幕府天領と尼崎藩領の境界がこの神社だったそうです。川が領地の境界になるというのは非常にポピュラーなケースなのですが、もしかしたらこの推定ルート②が境界になっており、この神社内を流れていたのかもしれませんね。

神社の北側にも、少し深めの排水路のようなものがあります。この排水路、ちょっと変だと思いません?排水路のど真ん中に電柱が立っているんです。で、よく見ると電柱の左側手前は、石積みだったところが急にコンクリートになっています。水路を埋めたのかな?という気がします。

そして航空写真を手掛かりに、推定ルート②を歩いていくと、突き当りにでました。照楽寺というお寺なのですが、どうも川筋とは思えない場所です。

どうやら道を間違えたか……と思い、寺の表札を見ると、水無瀬って書いてあるやん!!!

水無瀬といえば、山崎のあたりの水無瀬川が有名ですが、水無瀬というのは水無川の古語なのです。水無瀬という但し書きがついたこのお寺の地下に水が流れているという可能性がありそうです。何もなく「水無瀬」なんて名乗らないでしょうし。

もういちどお寺の正面の写真を見てみます。お寺の本堂はプレハブ造りですが、その後ろはかなりの高低差があり、崖っぽいとも言えます。これも仮説ですが、このお寺の崖の部分から(増水時には)水が湧きだし、川を形成していたのかもしれません。増水していない時には水が流れていない水無川であり、それをこのお寺が「水無瀬」と呼んだ……というのは考えすぎでしょうか。

そもそも神戸の六甲山南側は、川そばにお寺がある傾向が強いように思います。お寺では修行僧が多数生活をしなければなりませんし、檀家を集めたり縁日をしたりと、人が集まる場所です。人が集まるのであれば水は必要ですからね。

ところで、推定ルート②の探索はここまでです。ここより山側は、昭和20年代の航空写真の撮影範囲外ですし、現場を歩いても川筋らしきものは確認できませんでした。どこかに続いているとは思うのですが。

 

というわけで、この津知川調査に、なんと2日間もかけてしまいました? 川を探して怪しい動きをしていたので、近隣の人に変な目で見られることもありましたが、時間を忘れて楽しい散策ができました。もちろん、所要費用はゼロ円です!✌

  • B!

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