おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
当社の東京オフィスは新川一丁目に所在していますが、かつては「霊岸島(れいがんじま)」と呼ばれた地域でした。物流の拠点でもあった場所ですが、地名の由来となった「新川」という運河もあった場所です。探索をしてみました。
江戸時代の霊岸島
このあたりはもともと隅田川の中洲で、江戸中島とよばれていたのだそうです。江戸時代の初期に、霊厳というお坊さんが霊厳寺を建立。これが「霊岸島」という旧町名の由来となりました。
江戸時代の地図を見てみましょうかね。丸の部分が霊岸島であり、現在の新川1丁目、新川2丁目です。
新川と越前堀
霊岸島には2つの堀がありました。ひとつは「新川」です。現在の永代通りの南側にあった堀ですが、新川は徳川家康の江戸普請の際に開削された掘割(江戸城防衛のための堀)であるという説と、豪商・河村瑞賢が物資の陸揚げ用に開削した堀であるという説があるようです。どっちが歴史的な事実かはわかりませんが、この「新川」という名称が現在の地名の由来となっています。
もう一つは越前堀です。上記の江戸時代の地図にも「松平越前守」という文字が見られますが、霊岸島には福井藩の中屋敷がありました。この屋敷を囲むように堀があり、これを「越前堀」と呼んだそうです。
現在はいずれも埋め立てられましたが、この堀の推定場所を地図にプロットしたのが下記の図です。(赤線が新川、青線が越前堀です)
新川を追え!
新川は結構大きな川だったようで、川幅は最大で16メートルの場所もあったようですね。結構大きな川だったので、下の写真の道路の部分も一部そうですが、左側の建物が立っている部分までも川だったようですね。道路の微妙な湾曲が川っぽいです。
かつては新川だった部分が埋め立てられて建物になっていますが、謎の高低差がありますね。
新川の北側の岸には新川大神宮という神社があります。江戸の初期からあった神社です。このあたりはかつて酒問屋が集まっていて、新川で酒の荷揚げをしていたようです。酒はおそらく上方(伏見や灘)からの下りものだったのでしょう。当社の本社(神戸市東灘区)が灘五郷の一部ですし、当社の東京オフィス(中央区新川)がその荷上場だったのですから、不思議な縁のようなものを勝手に感じたりなんかします。
由来期によると、明暦の大火後にこの地に移転してきたようですね。東京大空襲で焼失し、現在の社殿は再建されたもののようです。
新川を隅田川のほうに歩いてきました。下記の写真は鍛冶屋橋通を渡ったところです。鍛冶屋橋通は江戸時代には存在しません。大正10年の地図にも見当たりませんが、戦中の写真にはその道筋を認めることができますので、関東大震災後の復興事業だったのかもしれません。
隅田川に突き当たるところに新川の碑がありました。江戸時代にはこのあたりに「三の橋」という橋がかかっていたようです。
越前堀を探して
もう一つの堀である越前堀を探します。越前堀の名前が残っているのが、越前堀児童公園です。都心の真ん中ですが、まずまず大きな公園ですね。
ここに越前堀の案内板がありました。もとの堀の場所が示されているので探してみたいと思うのですが、小さな堀だったようで、ほとんどが道路としてではなく区画として埋没しています。
この案内板によると、下記の赤線の部分が堀の名残なのだと思います。
①の部分にたって堀の名残と思われる場所を撮影したのが下記の写真です。堀っぽいですね!(そうか??)
そして②の部分。路地になって現存する堀跡です。①の道幅とほぼ同じです。
堀は児童公園から明正小学校を貫き、現在の新川二丁目の交差点(鍛冶屋橋通りと八重洲通りの交差点)あたりに抜け出ていたようです。ここからは八重洲通りにほぼそって、隅田川に流れこんでいたのでしょう。
写真に写っている薬局の名称が「越前堀薬局」ですね?