おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末恒例?のエモいブログです。コロナウイルスに流行の兆しがあり、いろんな都市型マラソンが中止となってますね。僕も一時期に、都市型マラソンに参加することにハマって時期がありました。正直に言うと、僕の場合、承認欲求を満たすためにマラソンしてたんですよね?
承認欲求を満たすためにマラソンしてた僕
冷静に考えると、万単位のお金を払って42.195kmも走るなんて、かなり変態酔狂なことじゃないですかね。そして「なんでフルマラソンするの?」ということは、いろんな人からよく聞かれる質問でもありました。当時の僕は見栄を張って「健康のためですよ」とか「自分に試練を課すためです」とか「サブスリーを目指したいんです」とか言ってたんですけどね。
本音を言えば承認欲求を満たしたいだけでしたかね?
だって「フルマラソンを○時間以内で走りました!」とかいって、フェイスブックとかインスタにでも投稿すると、みんなたくさん「いいね!」をしてくれるじゃないですか?
そうやって認めてもらえないと、自分はいつか見放されてしまうんじゃないかと思ってたんですよね。昔は。
年3回のフルマラソンに当選してしまった年のこと
幸か不幸か、ひとシーズンで3回の大型大会に当選してしまったことがあったんですよ。僕は生来の貧乏性ですし、大型大会に3つも当選するなんてめったにないことなので、すべて走ることにしたんですが、これがキツいんですよね(当たり前ですけど)。承認欲求を満たしたいといっても、さすがに毎月のようにフルマラソンを走るのはねえ……。
で、3回めの大会の時なんて、もうやる気ゼロで、ろくに練習もせずに参加したわけですよ。
(それでもサボらないのは、エントリー料に万単位のお金を払っているから?)
ろくに練習もしてないので、タイムもひどいだろうし、どうせフェイスブックでも自慢できない。だからいつでもリタイヤしていいやって気持ちでスタートをしました。
でも、1万円以上払ったんだから、元は取りたいと葛藤しながら走る僕?
どうしようか……と、走りながら考えた結果、
今回は完走やタイムを目指さずに、沿道の人にひたすら「ありがとう」を言う大会にしよう!
と勝手にルールを変えることにしたんです。
正確に数えてはいないけれども、おそらく500~1,000人程に「ありがとう」を言えたんじゃないでしょうかね。わずか4時間程度の間に、これだけの人一人ずつに「ありがとう」を言う機会なんてないから、これはこれで楽しかったんですよ?
ルールを変えると、自分のための走りができる
冒頭にも書きましたけれども、僕は承認欲求を満たすためだけにフルマラソンを走っていたんですよね。だから、ノンストップで走りきることや、タイムがとても重要だったんですよ。(フェイスブックで自慢して、「いいね!」を押してもらいたかったですからね)
でも、こういう走りは苦しいんですよ。
皆の共通する価値観(マラソンは○時間以内で走るとすごい)の中を走っているにすぎなくて、誰かが決めたものさしで評価されるために走っているようなものですから。誰かが作った基準や指標(サブスリーだとかサブフォーだとか)より、よい結果が出れば満足して、そうでなければ不満足になるという世界を生きることになります。
でも、自分の決めたルール(ありがとうを言って走る)で走ると、他人の決めたマラソンの価値観から自由になれるわけです。タイムのような共通の価値観を指標にしないので「もっと練習しておけば、みんなに認められるタイムが出たのに」という過去の後悔や「このままだとみんなに認められるタイムでゴールできそうにない」という未来の不安から自由になれます。
「『ありがとう』と言うと、この人はどんな反応をするか」ということだけを考えて、今ここを走ることができる。「ありがとう」と言って走るのは、誰かに評価される走りではない、自分だけに適用されるルール。しかし他人の作ったルールやものさしという価値観を走らず、自分なりのルールを設定し、自分自身の価値観を走れば、見えないもの(ありがとうへの反応)が見えてきます。
そんな風に思って走ってると、自分ルールで走ってそうな人って、結構いるんですよね。
僕が印象的だったのは、ゴミ袋を持って、沿道のゴミを拾いながら走っている人がいたことです。彼もまた、タイムや完走といった他人の価値観を走るのではなく、ゴミを拾うことで見えてくる何かを求めながら走っていたのだと思います。僕が「自分自身の価値観で走る」ことを覚える前だったら、ゴミ拾いしながら走るだなんて、単なるパフォーマンスとしか思えなかったでしょうね。
当然、僕もゴミを拾って、彼に渡したましたよ。
ありがとうって大きな声で言ってね?