環境整備(3S・5S)を支援する仕事をしていると、必ず耳にすることがあります。それは「あの人はいくら言っても掃除をしない(片づけをしない)」という言葉です。いわゆる「掃除(片づけ)が苦手な人」の存在ですね。
どうして掃除(片づけ)が苦手な人がいるのか?という問いに対しては、心理的な面、脳科学的な面、習慣の面から様々語られることがありますが、人間の進化の側面でも説明ができるということを、國分功一朗さんの『暇と退屈の論理学』を読んでいて知りました。
人間はいまだに非定住生活(遊動生活)に最適化されたままである
國分功一朗さんの説は、西田正規さんの『定住革命』を引いているのですが、この『定住革命』という本がなかなか興味深い内容です。人類の歴史は400万年あるのですが、その中で人類が一か所にとどまり続ける定住生活を始めたのは、たった1万年前のこと。それまで非定住生活(遊動生活)に最適化されていた人類は、気象変動の影響でやむを得ず定住をするようになった。したがって人間の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は、むしろ誘導生活にこそ適しており、定住化によってさまざまな不具合も見受けられる、という内容です。
この説が学術的に正しいかどうかは、素人の僕にはわかりませんが、なかなか面白くて説得力のある説だと感じます。
人類の「そうじ革命」「ゴミ革命」
このような「定住革命」の前提のもと、國分功一朗さんの本には、そうじやゴミの片づけについて、次のような考察があります。
遊動生活者は、ゴミや排泄物のゆくえにほとんど注意を払わない。理由は簡単だ。彼らはキャンプの移動によって、あらゆる種類の環境汚染をなかったことにできるからである。遊動生活者にはポイ捨てが許されている。
引用を続けましょう。
誘導生活を行っていたときにはこのような課題(そうじやゴミの片づけ)*に直面することなどなかった。食べたら食べかすを放り投げておけばよかったのだから。
定住生活を始めた人間は新たな習慣の獲得を強いられた。定期的に清掃活動を行い、ゴミはゴミ捨て場に捨てるという習慣を創造せねばならなかった。例えば貝塚のようなゴミ捨て場を決めて、そこにゴミを捨てるよう努力した。
※()内筆者
さて、結論です。
重要なのは、その時の困難が今日にも受け継がれているということだ。ゴミの分別がなかなか進まないこと、そうじがまったくできない人がいることは、この困難の証拠なのだ。
つまり、掃除・片づけができないのが、人間として当たり前の状態
これはなかなか説得力のある説です。人類の歴史が400万年。定住を始めて1万年。そうじやゴミは定住後の課題となった、というわけですから、掃除・ゴミの片づけが必要であった時代は、人類の歴史のたった0.25%にすぎない、ということでもあります。反対に言うと、人類はその歴史の99.75%の期間、掃除やゴミに対する意識を持たなくてよかった訳です。
人類の歴史では定住はかなり新しい習慣であり、掃除やゴミの片付けという生活様式の変化に人間の進化が追い付いていないというのはあり得ることだと思います。。要は人間は掃除ができないのが当たり前の状態だと言えるのかもしれません。
僕も子供をみていて思うことですが、面白いくらい掃除や片づけができません(^_^;)
生まれついて掃除や片づけができる子供っているんでしょうかね?
掃除・片づけができる人は、よほど訓練された人と見ることもできる
それでも掃除や片づけができる人は、現代社会には少なからずいます。なぜでしょうか?それは、人間の本来の習性を克服するほどの訓練を積んできた人だからではないでしょうか。
今は偉そうに環境整備の支援をしていますが、僕自身もかつては掃除や片づけが得意とは言えませんでした。環境整備支援の仕事をするようになり、さまざまな事例や技術を知り、自分でも実践をしてみて、それで初めて「掃除や片づけとはこういうものか」というのが理解できました。確かに僕たちは、子供のころから家庭や学校で、掃除・片づけを求められます。しかし、掃除や片づけのやり方をしっかり教わった人はどの程度いるでしょうか。掃除や片づけは、人間の本能に根付かない「技術」なのですから、ピアノや水泳のように、きちんとした人に正しい方法を教わらないと、それが「できる」という状態にはならないのではないかとも思いますね。
だから、掃除や片付けができないことを自分で責めたり、恥じたりする必要はありません。だってそれが当たり前なのですから。