おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末恒例のエモブロです。突然ですが、我慢することと、ダムって似てません?人の心の中にはダムがあって、我慢という名の水を貯えている……と思っています。(謎のイントロ)
小さな我慢でもイライラが止まらない
数年前のことですが、娘氏の保育園のお迎えに関して、イライラしていたことがあったんですよ。それは「僕ばっかり娘氏の保育園の迎えに行っているけど、なぜ配偶者様は行ってくれないんだ!」的な不満でした。
あっ、僕の配偶者様の名誉のためにいうけれども、配偶者様は決してお迎えをサボっているわけではありません。僕は自営業で自宅でも仕事ができるわけだし、いっぽうで配偶者様は通勤時間が1時間くらいかかるサラリーマンなので、ごく自然な役割分担だと思います。にもかかわらずですね、僕の心が勝手に「なぜ僕だけが!?」なんて思ってたんですよね。
いやあ、考えが小さい。世の中には、旦那が家事や育児をほとんど手伝ってくれないところだってあるというのに、なんて自分はわがままなんだ!……って自分ではわかってるのですけど、僕は余裕のない人間なので、「僕だけ我慢している」という感情がひとりでに湧いてきて、自分ではどうしようもなくなってたんですよ。
我慢のダムがあふれる寸前
で、ここで唐突にダムの話になるわけですが、「我慢する」ということはダムに水を貯めるようなものではないかと思う。
例えばこんな感じで。
ダムには、水(我慢)が貯められている。貯まっている水の量も人によって違う。Aさんは余裕があるかもしれないけれども、Bさんはいっぱいいっぱいかもしれない。そして、貯められる水(我慢)の総量は、人によって違う。Cさんのダムは、キャパが小さいかもしれない。
(ところで、ダムは地形、目的、予算、施工技術等によって大きさや形状が異なります。ダムマニアには常識だけど、一つとして同じダムは存在しないんですよ)
ダムでは貯まった水を放水するのだけれども、人間もまた、溜め込んだ我慢はどこかで発散しなければならない。でないと、ダムがあふれてしまう。
水(我慢)があふれたらどうなるか?水は低きに流れるという原則があるので、下流へと向かう。その時、水は濁流(怒り)に変わっている。濁流は下流へと向かって流れる。この時の「下流」とは、怒りをぶつけやすい人――つまり配偶者や子ども、もしくは後輩や部下、社会的弱者など――かもしれない。あるいは、下流は自分自身かもしれない。濁流に飲み込まれた自分自身は、最悪の場合、自死を選んでしまうかもしれない。
僕のダムはキャパが小さくてあふれそうになっていた
話は保育園のお迎えの件に戻りますが、僕のダムはそもそものキャパが小さいうえ、あふれそうになっていたんだと思います。なぜあふれそうになっていたのか?というと、過去から蓄積された水(我慢)を抜いていなかったからでしょう。
例えば僕は子供のころ、かなり理不尽な禁止令を母親から強いられていたことがありました。どんな理不尽な禁止令かというと、
「父と仲良くしてはいけない」
というものだったんですよ?
僕の母親と父親は仲が悪かったというのがその理由なんですけど、僕が父親と仲良く話していると、母親は面白くないんでしょうね。そういうときに母親から「裏切り者!」と何度も罵られたことがありました。
いやあ、子供心に理不尽だなあって思うんですよ。でも僕は「理不尽だ」と声をあげたことは一度もなく、ずっと我慢をして受け入れてきたんですよ。怖かったですからね、母親に逆上されるのが。
こんなふうに、よどみまくって腐った水がたくさん貯められていたわけなんですよ。もちろん我慢は他にもあって、学生時代の教師や同級生との関係、受験の我慢、社会人になってからは、忙しさ、理不尽な要求、人間関係などで蓄積された我慢。その上に、育児という新しい課題が生じるんですよね。子どもの機嫌を損なわないよう我慢をしたり、育児のために自分の時間を我慢したり……。
こういう我慢を発散させず、自分の中で抑えつけていると、いつか我慢はあふれ出てしまうんですよ。キャパが小さい人間なもんでね。
隣のダムは余裕があるようにみえる
僕の場合ですが、自分のダムがあふれそうになると、なぜか他人のダムに目が行っちゃうんですよね。そしてこれも不思議なことに、他人のダムはまだまだ水を入れる余地があるように見えるんですよ。
「おいおい。僕のダムはこんなにあふれそうなくらい水があるのに、なんであの人は余裕カマしてるんだよ……」
とイライラするんですね。すると(これも自分勝手なんですが)、無理矢理にでも自分の水を他人のダムに移そうとしたくなるんです。自分が我慢をしすぎると、他人にも我慢を強いるようになるんですよね。
でもそれをやってしまうと、人間関係が例外なく壊れます。 娘氏を保育園に迎えにいく件にしても、配偶者様に「おいおい、俺ばっかり迎えに行くなんて不公平だろ!」と言って、配偶者様のダムに自分の水を移すのを強行したらどうなるでしょうか。
配偶者様のダムのキャパ、水量は僕にはわからないので、配偶者様側があふれるかもしれない。もしくは配偶者様にも僕のダムの水量は見えないので
「何言ってんのよ!あんたのほうが自営業なんだから余裕あるでしょ!」
と、水掛け論になるかもしれません。
配偶者様のダムに水を移して自分はスッキリするかもしれないけれども、夫婦間で水(我慢)の押し付け合いをしているので、夫婦の水の総量は変わらないんですよね。
他人のダムに水を移すのではなく、自分の水はちゃんと抜く
水を押し付けあうことは、問題の根本解決にならないんですよ。そしてまたダムの話に戻りますが、ダムは人間よりも偉いので、ちゃんと水を抜くという機構が備わっています。だから人間も水(我慢)をちゃんと抜かなきゃダメなんですよね。
人間が「水を抜く」とはどういうことでしょうか?僕は「我慢をしなくてもいいと自分に許可を出す」ことだと思っています。時には「嫌だ」と意思表示をし、怒ることを許し、我慢しない自分を作るって言い換えてもいいですかね。
会社で上司が忘れっぽいなら「忘れないでくださいよ!」と文句を言う。
電車の中で、イヤホンの音漏れがしてシャカシャカとうるさいと思ったならば「音、漏れてますよ」と指摘をする。
ファミレスで子どもが騒いでいたら「ちょっと静かにしなさい」と注意する。
SNSで不快な書き込みやコメントを見たら躊躇せずにブロックをする。
こういう小さいことでもいいので「僕が我慢すればいいのだ」という発想をやめ、我慢を小出しに発散するってことですかね。こういう水抜きをチマチマやると、だんだんと「僕ばっかり!」と思わずに済む自分になってきますね。
(これは言語化が難しいところで、必ずしも「怒り散らす」とか「威張り散らす」ということではないんですよね。他人を尊重しながら、自分の気持ちも尊重するというツボみたいのがあるんですよ。僕も今でもあまりうまくできないんですけど。でもそのツボを見つけるには試行錯誤をして、時には失敗するしかないんですよね。こういうのって、誰も教えてくれないので。)
大抵の人の人生は我慢の連続
大抵の人の人生は我慢の連続だと思うんですよね。怒ることや拒否することって、社会的にはあまり歓迎されませんからね。集団の中で生き延びるためには仕方なく我慢をしているというのが、ほとんどの人たちに当てはまるんじゃないかと思います。
過去から貯め込んだ、よどんで腐った我慢を抱えていないか、自分の人生は我慢の連続ではなかったか、我慢を強いられる人生を歩んでこなかったか……というのは、ことあるたびに自分に問いかけてあげたい言葉ですね。こういうことを言ってくれる他人っていませんしね。自分で自分の我慢に気づいてあげるほかはないと思います。
その上で「我慢しないでいい自分」を許してあげると、自分がすごく喜んでくれます。
構造物であるダムにメンテナンスが必要なのと同じで、自分も自分の心のダムをメンテナンスしないとダメなんですよ?