おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロです。突然ですけど僕は、うまく怒れないんですよね。怒りなれていなくて、どこか不自然というか機械的にしか怒りを表出することができません。
怒ることを覚えなければ、怒りをコントロールできない
僕がかつて悩んだことのひとつに「怒る自分をやめたい」ということがありました。以前もブログで書いたのですけど、僕は自制心がないダメな人間なので、怒りっぽいんですよ。まあもうちょっと正確に言うと、ちょっとしたことにでもすぐイライラするのですが、聞こえないところでこっそり陰口を言う程度のせせこましい人間です。でも本当はそんな自分も嫌なんですよね。他人に見てほしい自分の姿とは、怒らない自分、理性的で理論的、理知的な自分なので、「怒る自分」は世間体が悪いと思って隠したくなるんですよ。だからイライラしてグチグチ言うけど、最後は怒りを飲み込んでしまう性格だといいますかね……。
でもそれはそれで苦しいんですよね。で「どうすれば怒る自分をやめられるのか?」と思っていろいろな本を読んだり、試行錯誤したり、カウンセラーに相談をしたりした結果、「怒ることを覚えなければ、怒りをコントロールできない」という僕なりの結論にいたりました。このあたりの詳しい説明は省きますが(この記事でも読んでください)、「怒ることを覚えなければ、怒りをコントロールできない」というのは、まあ逆説的ですよね。
「怒る」というのも、嫌いな相手や嫌なことをいってきた相手にいきなりキレるという類のものではありません。キレるというのは、かえって自己の感情をコントロールできなくなって爆発してしまう状態なので、正しく「怒る」こととは対極なんですよね。「正しく怒る」とは何か?というと、具体的には一人で目を閉じて、時には紙に書き落としたり声に出したりして、嫌な相手の顔や言動を思い出して、怒りの炎をたぎらせ続けること、です。(この考え方は、哲学者である中島義道先生の『怒る技術』という本を参考にしたものです)
でもうまく怒りの炎をたぎらせ続けることができない
で、実際に一人で目を閉じて、時には紙に書き落としたり声に出したりして、嫌な相手の顔や言動を思い出して、怒りの炎をたぎらせ続けることをやってみると、これがうまくいかないんですよね。どう怒ればいいかわからなくて、すぐに「もういいや。自分が我慢すればいいんだし」と、怒ることを諦めようとしてしまうんですよ。
いやいやそれじゃダメだし練習にならんだろ、ということで、怒りを声に出してみるんですけど「アホ」とか「バカ」とか「死ね」などという、小学生のような語彙でしか怒れないんですよ。どこか稚拙で不自然で、機械的にしか怒れないというか。本当に心のそこから湧き上がるような怒りを燃やし続けることって難しいんですよ。まあそんなことはしたこともないし、むしろそういうことはやるべきではないと理性で抑え込んで生きてきたので、怒り方がわからないんですよね。
我々が身につけた「社会性」という鎧はかくも強固である
怒れないのは自分が怒り慣れていないからではあるんですけど、根は「社会性」にあると思うんですよね。「怒る自分」は世間体が悪いと思って隠したくなる、と先に述べたように、「怒る」ということは一般的に社会では望ましい行為と思われていません。だから僕は「社会性」にしたがって、望まれない「怒る」という行為を隠そうとしているわけです。だから単に「怒る」ことを覚えようとしても難しくて、根本として「社会性」を脱ぎ捨てることを覚えないといけないんですよ。
哲学者である中島義道先生は、実際に相手に怒りをぶつけることをやって訓練したそうですが(例えば商店街での街頭放送がうるさいと商店街組合にカチコミにいったりしたそうですが💦)、まあはっきりいって社会的には単なる危ないクレーマーですよね。さすがにちょっとそれは……と個人的には思うので、もう少し穏便な形でなにかできないかとは思うのですが、こうした妥協の態度が「社会性」を脱ぎ去る邪魔をしているのかもしれません。
まあさすがに商店街組合にカチコミできないので、こうした自分のブログで内面を吐露することくらいでしか「社会性」を脱ぎ捨てる訓練ができていないわけですが、それだけ社会性という鎧は強固なんですよね。
そういう試行錯誤をしながら、少しは怒りの炎をたぎらせ続ける事ができるようになりました。今は20分くらいは怒れますかね。くだんの中島先生は40時間以上怒りの感情を持続させられるらしいのですが……まだまだ道は長いですね💦