おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロです。ぼくは若い頃「メリトクラシー」的な考えに汚染されていて、能力がある者や結果を出したものが偉いと思い込んでいました。今となっては全くそんなことはないと思っているのですが。
メリトクラシーとは何か?
メリトクラシーという言葉を聞いたことはありますか?最近では2021年にマイケル・サンデル教授が『The Tyranny of Merit: What's Becomf of the Common Good?』(邦題『実力も運のうち 能力主義は正義か?』)という本でメリトクラシーを批判したことが有名ですよね。
メリトクラシーは、「能力や努力によって評価され、成功できる社会」のことを指します。例えば、学校で一生懸命勉強して良い成績を取ると、将来良い大学に進学でき、さらに良い仕事に就けるという考え方です。つまり、誰もが自分の努力と才能で成功を掴むチャンスがあるという社会のことですね。
メリトクラシーの問題点
「いや、そういう考えは当たり前だし、社会とはそうあるべきだろ?」と思う人は、メリトクラシーに毒されています。確かに一見するとメリトクラシーは素晴らしい考えのように思えますが、いくつかの問題点があります。
まず、みんなが同じスタート地点に立っていないという現実があります。人は生まれたときから家庭の経済状況や教育環境が異なるため、全員が「平等」に競争する、なんてことは実はありえないのですね。
また、努力だけでは成功できない場合もあるでしょう。病気やけがなどの予期しない出来事や、運の要素も成功には関わってきます。どんなに頑張っても結果が伴わないことだってあるわけです。
さらに、失敗した場合の自己責任が重くなるという問題もあります。メリトクラシーでは、成功も失敗も自己責任とされがちです。そのため、失敗した人は自分を責めやすくなり、精神的な負担が大きくなります。受験とかに失敗したら、自分自身が全否定されたような、ものすごい劣等感に襲われませんか?それは「失敗=自分の努力や能力のたりなさが原因」と、自分を責めてしまうからですね。
メリトクラシー的な考えと資本主義の発展との関連
メリトクラシー的な考え方が普及してきた背景には、資本主義の発展があると言われています。資本主義とは、企業が自由に商売をする仕組みのことで、自由競争が特徴です。この自由競争の中で、個人の能力が重視されるようになってきました。
例えば「創業わずか5年で売上100億円企業にした経営者」と「創業5年で売上1,000万円にした経営者」がどちらが優れているか?と問うと、おそらく多くの人は前者だと答えるでしょう。メリトクラシーでは結果が重視されるため、成功の度合いによって評価が大きく変わります。その結果を引き起こした原因を、個人の能力に求めるようになるのです。
しかし、経営者の優劣を単純に売上だけで判断するのは不適切です。経営者が何をゴールとして設定し、何を商材として扱い、どんな経営環境で経営をしているかによって、結果は異なるのは当然のことです。また、売上以外にも、従業員の満足度や社会への貢献度など、多様な評価基準があります。したがって、メリトクラシー的な評価は一面的であり、他の重要な要素を見落としがちです。
このように、資本主義の発展とともにメリトクラシー的な考え方が広がった一方で、その評価基準が持つ限界にも目を向けることが重要です。
メリトクラシーが権威主義につながりやすい理由
しかし、メリトクラシーにはもう一つの大きな問題があります。それは、若い頃のぼくが陥ったような「権威主義」につながりやすいということです。
メリトクラシーでは、能力や努力で成功した人が高い地位につきます。これ自体は良いことのように思えますが、行き過ぎると「成功した人が偉い人だ」とか「肩書を持った人が素晴らしい人だ」という、安直な考え方になりやすいんですね。
このような考え方が強まると、能力の高低や、結果で人を差別することになります。つまり、「成功した人は優れていて、成功しなかった人は劣っている」という見方で人を判断してしまいます。こうした考えを若い頃のぼくは持っていたので、結果を出せなかった人を見下していました。でもぼく自身が結果を出せないことも当然あるわけです。そういうときは、とてつもなく大きな自己嫌悪の沼にハマって、長期間抜け出せなくなるんですよ。つまりメリトクラシーがぼく自身を苦しめてしまうことに気づいたんですよね。
メリトクラシーは、能力や努力で評価される、一見すると公平で素晴らしい仕組みのように見えます。しかし実際には、結果が出るかどうかは「運の要素」もあり、必ずしも能力や努力が結果に直結するわけではありません。行き過ぎると、他人を見下したり、強烈な自己嫌悪につながったりするのがメリトクラシーなので、能力・努力・結果を信奉することもほどほどにしないと、自分自身の精神衛生上もよろしくないですね。