おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
うちの娘に「将来何になりたい?」と訊くと、その都度、いろんな答えが返ってきます。そういう時、僕は子どもの時に何になりたかったかな……と思いを巡らせるのですが、僕はビッグな人間になるものだと思っていたようでした?
うちの娘は「パン屋さん」とか「本を書く人」になりたいんだそうです。しかしたまに、どうしてそう思ったのか、アイドルになるとか言い出すこともあります。子どもって、なりたいものがコロコロ変わりますよねえ。
僕は子どもの頃、自分はビッグな人間になり、他の人とは違う人生を送るものだと思っていたことを覚えています。まあ、子どもっぽいといえばその通りなのですが、具体的には「仮面ライダーになりたい!」とか「総理大臣になりたい!」とか、そんなことを思っていたように思います。
実はですね、20代の半ばくらいまで、自分はいつかひとかどの人物になって、他人とは違う人生を歩めるはずだ、と思っていたフシがあるんですよね。20代の半ばくらいに憧れていたのは、世界を飛び回るヤングエグゼクティブ。バリバリに仕事ができて、愛する人と結婚し、幸せな家族とともに過ごして……みたいなイメージかな。今振り返ると、バブリーなイメージだことで……?
ところが20代も後半になって、ようやく現実がわかってきました。それまでひとかどの人物になれるものだと信じていたのですが、どうも自分にはそんな器量はなさそうだということが明確になってきました。その反動からか、今度は真逆に「自分は名もなき人間として世間に埋没してしか生きられない」と、極端に振り切れてしまうようになりました?
この極端な性格?扱いづらい人ですねえ。。。
しかし、いつかどこかで「名もなき人の特別な人生」という言葉に出会ったのです。それまでは「何者かになる」と「なれない」の二元論しかない僕に対して、なにやら新しい価値観を提示された感じを覚えました。「特別」とは一体何か?と厳密な定義づけをするつもりはないけど、違う言い方をすれば、名もない人の、なんでもない人生の中にも光り輝くものがあるっていう感じでしょうかね。
話は急に変わりますが、以前どこかで、うつになったある男性の話を聞いたことがあります。
その男性はうつになり、自分の人生を振り返る中で、自分が被虐待児であり、彼の母親には精神的な障害があったのだと気づいたのだそうです。気づきを得て回復に向かう途上で、「自分を責めなければ、心地よく過ごせる」ということに気がついたそうです。彼以外の多くの人にとっては当たり前のことかもしれないですがが、彼は40年近く生きて、自責の念や義務感が薄くなり、心安らかに人生を送る術を見つけた、という話。
名もなき彼が、心安らかに生きる方法を、40年にしてようやく手に入れた生き方。今の僕にはこういう生き方が、すごく光り輝く特別なものであり、40歳を超えてもなお自分の将来に可能性を思い起こさせる、豊かなものに思えます。
将来のことを考えるときに私たちは「何になるか」ということを中心に考えがちです。うちの娘や、かつての僕がそうだったように。そしてそれは往々にして、人に注目されるような、特別な地位をともなうもののような、大金を手にできるようなもののような場合が多いと言えるでしょう。
しかし「どう生きるか」という観点で人生を見ると、自分が何者かにならなくても、自分にしか生きえない人生というものが浮かび上がってくるように思います。こういうことに気が付くのに僕は40年以上もかかってしまいましたが……うちの娘もいつかこういうことを考えるようになるんでしょうかね。