おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
年末年始の休暇に、ご近所の旧西国街道探索をしてきました。東神戸の市街地では、旧街道の道筋はあまり残っていないのですが、本山から住吉川にかけて若干残っているんですよ。今回は森市場から住吉川まで歩きます。
今回の探索ルート
森市場(現セルバ)は、かつては日本有数の市場だった
今回の探索のスタートは、甲南山手駅前にある商業施設「セルバ」からです。
いまでは何の変哲もないこの商業施設ですが、かつては売上規模として日本有数の市場だったんですよ。セルバ名店会のホームページを引用します。
森市場は昭和7年、まだ辺りが田園と荒地であったころに誕生。当時としては日本最大級の市場だった。2000坪の敷地の東西二筋に100軒余りの店が並び、阪神間の市場トップの売上を誇っていた。
建物の入口には、このような石碑もありますね。
森市場はここ南森町に昭和7年4月に開設されました。以来60有余年の長きにわたり、地域の皆様の台所として親しまれてきましたが、平成4年10月再開発事業により新たなる飛躍を志し、又これからも地域の人々に愛されることを祈って「セルバ」と命名し、新しく生まれ変わりました。(セルバとは、スペイン語で森を意味します)
森市場協同組合
代表 渡部 博
平成4年10月27日
かつては日本有数だった市場だったのですが、現在では店舗数が半数以下になっているそうです。この影響として無視できないのが阪神淡路大震災ですね。震災でもセルバの周りは大きな被害を受けました。
赤鳥居
さて、森市場から西国街道を西へ向かうと、すぐに右手に赤い鳥居が見えます。これは森稲荷神社の鳥居なのですが、これも江戸時代から存在していた鳥居のようです(鳥居自体は建て替えられているのでしょうが)。街道を歩く人達も見た光景ですね。
赤鳥居の周辺も、震災で大きな被害を受けています。
深江(本庄村)と本山(本山村)の境界である籾取交差点
これも何の変哲もない交差点ですが、ここがかつての本庄村と本山村の境界です。
このあたりに、街道時代には「琴田橋」という橋がかかっていたようです。現在の琴田橋は、もっと南西にあるんですけどね(要玄寺川と鳴尾御影線が交差する橋)。
西国街道にかかる要玄寺川と天井川の橋
その要玄寺川は、かつては串田川と呼ばれていました。西国街道を行き来する人も、この川にかかる橋を渡ったことでしょうね。(このコンクリート製の橋は昭和40年代のものですが)
こちらの橋は天井川です。近世の地誌「福原鬢鏡」や「兵庫名所記」などの文献によると、このあたりには「山路城」という城があったそうです。太平記に記述のある「山路城」ではないかと見られていますが、資料が少なくて特定の難しい城です。まあ街道沿いの交通の要衝ですから、なんらかの軍事施設があってもおかしくはないですね。
山王神社から旧街道筋があらわれる
ここまでの西国街道は国道2号線に吸収されているのですが、田中の交差点にある山王神社からは、旧街道の道筋が残っています。
いまは何の変哲もない駐車場ですが、この赤線の向き、幅で西国街道が西へ向かっていました。
石碑にも書いていますね。
駐車場の西側へ移動してきました。この幅!この湾曲具合!街道っぽいと思いません?? ちなみに西国街道は、江戸幕府によりその幅を二間半(約4.5m)と決められていました。この道幅はもうちょっと狭いかな?という感じですけどね。(江戸時代の道幅を現代で測ることは困難ですからね……)
本山南中学付近から住吉川へ
旧街道にそって、更に西へ進みます。「二つ茶屋」という名称がマンションに見えます。このあたりに茶屋があったのかもしれません。ちなみに江戸時代の西国街道では、公式の宿場は西宮から明石(大蔵谷)まではありませんでした。40キロ近く宿場がなかったんですよね。
本山南中学を過ぎてしばらく歩くと「くび地蔵」があります。結構なインパクト!
この祠も江戸時代からあるもののようです。ただし先代?のくび地蔵は阪神淡路大震災で倒壊しているので、現存するのは再建後のものなんでしょうかね。
そして旧街道は、コープと神戸市の建物に阻まれて途切れています。
建物を回り込んで住吉川へ出ました。街道は住吉川をわたり、現在の住吉駅駐輪場のあたりを通り、住吉神社付近で再度、現在の国道2号線に吸収されます。
路面電車阪神国道線と阪国バス
ところで、現在の国道2号線には、1920年代から1960年代にかけて、「阪神国道線」という路面電車が走っていました。廃止後、各電停はバス停として(ほぼそっくりそのまま)存続しています。この「田中」のバス停も、かつては電停でした。
かつてはこのバスも、神戸税関前から尼崎までという結構な距離を走っていました。現在では西宮で乗り換えが必要となっている上、バスの本数も1時間に4本から3本に減便となりました。
ところで今でもこのバスのことを「阪国バス」と呼ぶお年寄りがたまにいますね。阪国バスとは、現在の阪神バスの前進の名称です。wikiから引用しますね。
現在の阪神バスの母体は、かつて「阪国バス」と呼ばれた阪神国道自動車である。同社は1928年に阪神国道とも呼ばれる国道2号線の開通と同時に設立された乗合バス会社で、「マッチ王」で知られた滝川儀作、阪神電気鉄道そして阪神急行電鉄(現在は阪急電鉄)の三者を大口出資者として設立された。(中略)1949年、阪神電気鉄道は阪神国道自動車を合併。以降、暫くは「阪国バス」の呼称のまま阪神電車直営のバス事業が再開された。
今も昔も交通の要。西国街道でした?