おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロです。ぼくは結構激しい被害者意識を持っています。なぜなら自分を被害者のポジションに置ければ「僕は正しい!間違っているのは向こうの方だ!」と、気に食わない誰かを遠慮なく批判できますからね。
上司がダメな人であることを内心喜ぶ私
ずいぶん昔の話ですけど、ぼくがかつて働いていた職場の上司で、すごくダメな人がいたんですよ。何がどうダメなのかといのはかなり主観ですので、本当はダメな人じゃないのかもしれないけど、その人をおとしめたいので「ダメな人」というレッテルを貼りたかったのかもしれない。
例えばですが、ぼくが「ちょっと○○の件で相談があるんですけど、明日お時間もらえますか?」みたいな話をするじゃないですか。ダメな上司の人は「ああいいよ」って言うんですけど、翌日になったら忘れてるんですよね💦「何の話だっけ?」みたいな感じで。
そんな態度をとられると「おいおい、昨日ちゃんと相談したろ?」と僕はイライラをつのらせるんですけど、その一方で、上司が話し合いの時間を忘れているとシメシメ……と、ちょっと嬉しい気持ちになるんですよ😫
なぜ約束が忘れられたら嬉しいのか
上司が約束が忘れていたんですけど、なぜそれが嬉しいんでしょうか。それはぼくが「錦の御旗」を手にすることができるからだと、今は思います。
約束を忘れていたのは明らかに上司の方。ぼくは、約束を忘れられてしまったかわいそうな被害者。非は100%上司にある。上司に面と向かって「ぼくは正しい」「上司が悪い!」「間違っているのは上司のほうだ!」と批難する権利が得られます。その上、ぼくは被害者として、第三者から共感と同情される権利を得られるというわけですよ。
これ、すなわち「錦の御旗」。
上司が約束を忘れたという事実は、被害者であるぼくに正当性があるという「証拠」になりますからね。上司に対して優位な立場に立てて、しかも相手の非をあげつらえることを内心ではほくそえんでいたというわけです。
今思うと、歪んだ考えだな~って思いますね😫
共感がほしいという悪魔のささやき
ぼくがそうして抱えていた「被害者意識」の背後には、誰かに同情・共感をしてほしいという欲求があったのだと思います。
ぼくにとって不利益な出来事を経験することは、必ずしも被害者意識には結びつきません。例えば外出先で雨に降られたとしても、被害者意識はめばえないでしょう。しかし「誰かによる不当で、不公正な行為だ」とぼくが認知するような出来事だと、第三者の共感と理解を得やすくなります。そういう場合に、私は被害者意識が強くなるように思うんですよね。
つまり
「今村くん、かわいそうだね。よしよし。今村くんは悪くないよ」
と言ってもらえそうな時に、ぼくの被害者意識は強くなるというわけですよ😅
もちろん、根底にはぼく自身の自己肯定感の低さがあり、低い自己肯定感を補うために、第三者の同情・共感を求めているんだと思います。そして上司が約束を忘れたという事実は、まさにその絶好の口実だったんでしょうね。
被害者意識は必ずしも「被害の事実」ではなく、自分が作り出したもの
しかし上司が約束を忘れたとしても、それがすなわち僕にとって具体的な損害を与えたといわけではありません。そのときに忘れてたんならば「もーやだなあ、約束したじゃないですか(笑)。じゃあ明日にでもやりますか?」と仕切り直せば問題はないんですよ。そこには被害の事実はありません。
ぼくはただ「ダメな上司に仕えるぼくはかわいそう」「上司にないがしろにされたぼくはかわいそう」というストーリーを自分で作り出しだしたいんですよね。だから、この被害者意識から脱するためには、「第三者からの同情や共感が欲しくて、ストーリーを作り上げているのは、他ならぬ自分自身なのだ」ということを認知するところから始めなければならないんでしょうね。
上司に対して「約束を忘れるあなたが悪い」と批判するのは、きっと問題の根本解決になりません。なぜなら被害者でありたい僕は、また別の口実を見つけて、上司を批難するはずです。誰かを叩いているときは、自分自身のダメさから目をそらすことができますからね。「甘美な罠」といってもいいと思います。
僕が作り出した被害者意識なので、他人のせいにするのではなく、ぼくが責任を持ってケリをつけるしかないんですよね。