おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロです。誰かの怒りを目の当たりにするのも気持ちいいものではありませんけれども、自分の怒りもどう扱えばよいか戸惑うことがありますよね。今日はなぜ人は怒るのかという心理学的なメカニズムにそって、怒りの扱い方について考えてみたいと思います。
人なぜは怒るのか(ジェリー・ディッフェンバッカー教授のモデルにそって説明)
そもそもなぜ人は怒るのかというメカニズムは、コロラド州立大学の心理学教授であるジェリー・ディッフェンバッカー(Jerry L. Deffenbacher)が提唱した有名なモデルがあります。
これだけではよくわからないと思うので、例を使って説明しましょう。
「怒る前の状態」というのは、何らかの刺激を受ける前の心理状態のことで、刺激を受けた後に感じる怒りの強さに大きな影響を与える可能性があります。例えばよく言われるのは、空腹時に怒りっぽくなるということがあります。それ以外にも、疲れていたり、急いでいたり、もしくは大きなプレッシャーを受けていたりするという心理状態のことです。
しかし、心理状態もなにかの結果に過ぎません。疲れているということの原因は仕事でトラブルがあったからかもしれないですし、急いでいる原因はなにかに遅刻しそうだからかもしれません。プレッシャーを感じやすいのは遺伝的な理由があるかもしれませんし、もしかしたら職場環境や育ってきた家庭環境に根本原因があるかもしれません。
こうした「怒る前の状態」は、人や時、場所などによって様々であり、要因が複雑に絡み合っているのが普通でしょう。
「刺激」というのは、怒りの感情を引き出す出来事のことです。例えば前を走る車がノロノロ運転をしている場合などがあるでしょうか。そうした目の前のできごとだけでなく、過去の記憶や将来の想像も刺激になりえます。思い出したら腹が立ってきたとか、「今度同じことをしたらただじゃ済まさないぞ」みたいな未来のことで怒ることもあるでしょう。
そして「評価・解釈」とは、刺激をどのように評価するかということです。例えば、刺激である「ノロノロ運転」を脅威に感じたり、不当に干渉されていると感じたり、不公平だと感じたり、ずるいと感じたりすることですね。そうした評価によって「ひどい!なんてことをするんだ!」という気持ち(つまり怒り)っが沸き起こり、そして声を荒らげて「おい!早く行けよ!このタコ!」みたいな罵りの言葉を吐いてしまう、というメカニズムですね。
誰かを怒らせたとしても、怒りの責任は怒る本人にある場合も
ジェリー・ディッフェンバッカー先生は、こうしたメカニズムを提唱しているわけですが、これに従うと「怒る前の状態」がどうなのかによって、同じ刺激を受けても「怒り」は起きないこともあるはずです。例えばお腹いっぱいで疲れもなく、特に急いでもいない状況で、目の前にノロノロ運転という刺激が現れても、怒りは怒らないかもしれません。
または、人によっても違うでしょう。急いでいるときにノロノロ運転の車に出くわしたといっても、皆が皆同じように怒って「おい!早く行けよ!このタコ!」というとは限りませんよね。同じ刺激を受けたとしても、「怒る前の状態」が人によって異なると、その後に怒りが生じるかどうかも変わるのです。
往々にして「怒る前の状態」というのは見えないものです。自分自身ですら客観的に今の自分の状態を認知するのは難しいものです。ノロノロ運転に出くわしたときに「ああ、今自分は空腹という状態だから、ノロノロ運転に反応してしまっているな」などと冷静に自分を客観視できるのは相当困難でしょう。自分でさえそうなのですから、まして他人の「怒る前の状態」について、完全に理解をすることは不可能と言ってもいいと思います。
「怒る前の状態」は、人や時、環境、境遇、その人の経験などによって様々であり、要因が複雑に絡み合っているのが普通だと言いました。だとすれば、仮に自分の言動が「刺激」となり、誰かの怒りを誘発したとしても、「刺激」を与えた人が怒らせたとは一概には言えないでしょう。
暴論かもしれませんが、誰かの怒りの「刺激」を与えた人には責任がないとすらぼくは思います。刺激に反応して起こったのは、もとをただせば、起こった人にまつわる「怒る前の状態」次第なのですから、怒りの責任は怒る本人にあると思います。
いやもちろん、わざと誰かを怒らせるような挑発をするようなことはダメですよ。そうではなく、意図せず、自分としては注意を払ったコミュニケーションをした結果として誰かを怒らせた場合だったら、怒りの責任は怒る本人にある、という話です。そういう場合にまで、誰かを怒らせたことを悔み、責任を感じる必要はないとぼくは思います。
自分の「評価・解釈」を大切にする
そして反対に、誰かから刺激を受けたときの自分の「評価・解釈」も大切にしたいと思います。
もちろん、相手の事情も考慮に入れずに「自分の期待どおりにあいつが動いてくれない」と勝手に思い込んだ筋違いな「評価・解釈」はいけませんけれども、例えば差別やいじめ、不当な言いがかりに対して「不公平だ」「不当だ」「脅かされている」と感じる気持ちは、他ならぬ自分自身が感じた実際の感情でもあります。
「怒り」は、いまの私たちの社会では「忌み避けるべきもの」「表に出してはいけないもの」として認識されることが多い用に思いますが、怒りを生む直接のきっかけだからと自分の実際の感情を頭から否定をせずに痛いものだと思います。