おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
先日、仕事も兼ねて大分・別府に行ってきました😊早朝散歩しながら、別府の歴史に触れてみました。
流川とラクテンチ
まずは流川通りの山裾の突き当りにあるラクテンチまでボチボチと歩きました。
平安初期に編纂された『続日本紀』によると、別府は平安時代あたりには朝見郷と呼ばれていたそうです。いまでも朝見川や八幡朝見神社にその名前が残っていますね。
朝見は「敵見」(あだみ)が変化したものらしいのですが、静岡県の熱海(あたみ)も、もともとは「直見」(あたみ)と呼ばれていたようなので、おそらく朝見も熱海と同じように、温泉を意味するのだと思わているそうですね。そして今の別府は、江戸時代くらいまで朝見郷と呼ばれていたようです。
ところで、いまの流川通りは、明治時代から昭和初期にかけて別府最大の繁華街でした。明治の終わりにはこの一帯は300件の旅館が立ち並ぶ一大観光地だったそうです。別府観光開発の恩人である油屋熊八(あぶらや くまはち)が亀の井旅館(現、亀の井ホテル)を建設したのも、この流川沿いですもんね。
流川という地名からもわかるように、もともとここには川があったようです。その川は湯川だったようで、ふつうに人が川で温泉を楽しんでいたそうです。別府今昔風土記によると、もともと遊女との別れを惜しんだ名残川と呼ばれていたようですが、それが転化して流川になったらしい。
この流川は大正時代に暗渠になりました。その辺の経緯はブラタモリでもやっていましたね。
ところで流川通りのには菊屋がありますが、ぼくの父親が菊屋の建設に関わっています。父いわく、菊屋の工事は地盤が悪く難工事だったとのことです。川沿いなので地盤が緩かったのですかね。
そして流川通りの先にラクテンチがあります。大分県民が生まれて初めてギャンブルをするところとして有名です😅
ラクテンチは1929年(昭和4年)に開業。まだまだ流川が別府最大の繁華街であった時代にできたんですね。現代で例えると、箱根湯本にUSJができるようなものでしょうか(違うか)。
ちなみにラクテンチのケーブルカーは、国交省にから許可された鉄道事業免許に基づいて運営されている、立派?な「鉄道」らしいです。
ラクテンチのちょっと手前に、まだ新しいとおぼしき別府市学校給食センターがありました。給食センターのキャラがかわいいですね😊
ビーコンプラザから別府公園(野口)
さてラクテンチから北へ向かい、野口の方へと歩きます。
まずはビーコンプラザのグローバルタワー。
このあたりは野口と呼ばれていたそうで、昔は豊前街道や由布院方面への辻(交差点)だったそうです。いまも県道216号から県道11号(別府一の宮線)が立石方面に伸びています。
野口という地名は、明治15年ごろから見える名前のようで、それ以前は記録が少ないそうです。1895年に競馬場ができたそうですが、そのあたりの時代にこのあたりは開発されたのでしょうか。なお別府競馬場は1954年に廃止。今の総合運動場に競馬場があったそうです。
どうでもいいですけど、ビーコンプラザ近くの高校に、ぼくが青春時代に好きだった女の子が通っていました。いや、片思いだったのでこのあたりでデートをしたことなど全くないのですが、50歳のおじさんになった今でも、このあたりにくるとなんかソワソワするんですよね。(かわいいでしょ?)
そのまま海側へ歩き、別府公園へ。
別府公園は明治40年に大正天皇(当時の皇太子)の行啓に伴い、整備されたそうです。競馬場もそうですが、このあたりの開発は明治時代と遅いんですよね。境川が暴れ川で、よく氾濫していたようなので、近世までは開発に不向きな土地だったのかもしれませんね。
そして最後は別府ねこをパシャリ。やっぱり別府いいなあ😊