おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
先日は深江~青木までの旧西国浜街道探索をしましたが、今日はその続きです(誰も期待していない?)。青木から味泥(摩耶ランプ付近)の間の、旧街道筋が残る部分を中心に紹介します。
前回までのあらすじ
前回は、旧西国浜街道の深江~青木の区間を探索しました。
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【当社のご近所紹介】旧西国浜街道(深江~青木)を歩く
おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。 誰も興味のないご近所歴史探索ブログのお時間です? 今日は暗渠探索と同じくらい好きな旧街道歩きです。当社所在地の東灘区深江には、かつて西 ...
青木~味泥間の旧西国浜街道について
昭和10年の測量図から、旧西国浜街道を推定したのか下記のマップです。(赤線が旧西国浜街道)
これを現代の地図にプロットしましょう。この区間もほぼ国道43号線ですが、魚崎付近と新在家付近で、43号線の南側に旧街道筋が一部現存してそうです。
魚崎南町付近(五百地公園)から住吉川
青木からはほぼ現国道43号線に沿っている旧西国浜街道ですが、旧街道筋の名残がみられる場所が魚崎南町付近(五百地公園)から住吉川にかけてです。下記の写真は五百地公園の北側の道路ですが、これが旧街道筋ではないかと推察します。
公園の説明板でも道路元標や道標について触れられています。この説明板では道路元標と里程元標を混同して説明している気がしますね。道路元標とは大正期に設定されたもので、里程元標が明治時代のものです。大正時代に設置された道路元標は、当時1万2000以上あった各市町村の自治体中心部に設置されたそうです。このあたりが魚崎村の中心部だったのでしょうね。五百地公園の隣に魚崎八幡宮神社があることからも推し量れます。
これが旧西国浜街道の道標ですね。
五百地公園を西に進みます。この細い道が旧街道筋ではないかと思うのですが……少し幅が狭いようにも感じますね(標準的な街道の幅は6メートル弱)。土地区画整理事業などで道筋が多少変えられたのかもしれません。
住吉川に近づくにつれ、旧街道筋と思われる部分はとぎれとぎれになっています。この(旧街道筋と思われる)道も、ゴルフ場に突き当たっていますね。
昭和10年の地図と現代の地図を見比べながら歩くと住吉川に架かる橋は当時と同じ場所にあったようです。ここで再び旧街道筋は43号線に合流します。
呉田会館の道標
神戸市東灘区住吉南町1~5丁目の全部及び住吉宮町5丁目の一部を呉田(ごでん)地区というそうです。江戸時代に開墾された沿岸の新田であり、御影郷に属する酒造地帯です。wikiには次のように説明されていますね。
住吉では現行の行政上の町名とは別に山田・空・西・茶屋・呉田・吉田・住之江という江戸時代からの伝統的な7つの地区名が祭祀(だんじり祭り)時に用いられる。これに観音林と反高林を加えたものが村政時代の区(当初の町、所謂町内会)である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 "住吉 (神戸市)"
その呉田の中心と思われる場所に呉田会館があるのですが、旧西国浜街道の道標があります。
嘉永四年にしてはきれいに残っているなあと思っていたら……
どうも再建された可能性が濃厚だそうです。ちなみに説明板では「大阪」表記を根拠にしていますが、江戸時代でも「大阪」「大坂」とどちらの書き方もあったようです。(江戸時代までは、音に対する字の正確さは、あまり厳密ではなかった)
これが元来の道標のようです。地震なのか空襲なのか、それとも自然になったのかはわかりませんが、破損したんでしょうね。
御影塚町から新在家南町へ
呉田会館以西もしばらくは43号線に沿って旧西国浜街道は続きますが、43号線と別れるのが御影塚町のあたりです。下記の写真の橋を渡ったところから、西国浜街道は南西方面(向かって斜め左方向)に向かっていたと思われます。今は建物がありますが。
建物の先には、旧街道筋と思われる道が断片的にあります。
葬儀場にもさえぎられていますが、下記の赤線が旧街道筋ではないかと思われます。
完全に路地裏ですね。昔はここが主要幹線道路だったとは全く感じられません。
しばらく行くと商業施設(アクタス六甲)に突き当たります。アクタス六甲は2000年にオープンした商業施設ですが、以前はレンガ倉庫があったそうです(神戸製鋼の関連施設か?)。それが阪神淡路大震災で倒壊し、その跡地にオープンしたのだとか。旧街道は、このアクタス六甲の南側に現存します。
アクタス六甲の南側には旧西国浜街道についての説明板があります。
説明板のあたりから西方向を向きます。このあたりはほぼ完ぺきに旧街道筋が残っています。なぜここだけ43号線に組み込まれなかったのかはわかりません。完全な憶測ですが、この辺りは(他の西国浜街道区間と異なり)かなり当時の海岸沿いです。地盤の関係などで工事が難しかったのかもしれません。
新在家から味泥へ
さらに西へと向かいましょう。現在の神戸市灘区新在家・大石地区は、江戸時代の灘五郷の「西郷」にあたります。ややこしいのですが、灘五郷の中心は東灘区御影付近なんですね。先に灘区が「灘」を名乗ってしまったので、後で神戸市に編入された御影や魚崎といった灘五郷の中心部が「東灘」を名乗らざるを得なくなった、というエピソードがあります。
都賀川の渡る部分に新しい石碑があります。2000年に建立されたものだそうです。
都賀川の西側は工業地帯です(用途地域としては準工業地域)。大型車の出入りが多いためか、旧西国浜街道が2車線に進化?しています。その上を阪神高速3号線が通っています。このあたりから味泥町です。
味泥町の西国浜街道を進むと、阪神高速3号線の摩耶ランプにつきあたります。この付近は神戸の交通の要衝なんですよね。43号線、2号線、阪神高速が集中しています。
ここから西に向けて、西国浜街道は旧街道筋の面影を残していません。神戸市街の中心部ですもんね。
アクタス六甲付近にあった説明板によると、この先の西国浜街道は、「脇浜を通って生田川を越え、現在の三宮神社付近で西国街道とふたたび合、流していたとされます」ということです。この先、三宮へ向かうの区間にも旧街道筋が残された部分がありますので、いずれ現地調査したいと思います?