おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
阪神・淡路大震災から今日で30年になりました。やっぱりこの日の近くになるとソワソワして、あの日のことをいろいろと振り返ってしまいますよね。30年という節目なので、フタをしていた自分の気持ちを供養したいと思います。
震災では幸いなことに、ぼくが住んでいた地域は大きな被害を受けることはなく、知人や友人の中で命を落とした人もいませんでした。しかしそれゆえか、この30年間、自分が「被災者」だと名乗ることにかなりの抵抗を感じていました。自分よりもはるかに辛い思いをした人々がいたのだから、そんな資格はないよな、と思っていたんですね。
けれどもぼくは、実際には苦しかったのです。あの日、あの時以降、電気やガスや水道は止まり、生活はしばらく混乱の中にありました。余震も続く中、「また大きな揺れがくるのではないか」という不安は消えませんでした。外に出れば、行き交う人々の表情は険しく、それがさらに自分を不安にさせました。あの混乱のさなかは、ぼくにとっては辛いものでしたが、「男だからそれを表に出してはいけない」と自分を縛っていたように思います。それどころか、不安からイライラした気持ちにもなり、その時周りにいた人に嫌な思いをさせたことだと思います。
震災から5日目くらいだったと思います。電話もようやく繋がるようになったころ、実家にいる父から電話がありました。父の第一声は「お前大丈夫なのか?」という言葉でした。ぼくは震災直後、1月17日の午前6時くらいにはすでに母に安否を伝えたはずです。でも、それが父に伝わっていなかったことをその時知りました。ぼくの両親は夫婦仲が悪く、それまでもずっと家庭内別居状態だったのですが、息子の安否情報さえも共有していなかったんです。両親はお互いの面子にこだわり、ぼくの安否をコミュニケーションすることよりも、自分たちの面子を優先していたのかと思うと、心底失望しました。その電話を受けた瞬間、ぼくは(それまでも相当程度に損なわれていた)両親への信頼を、改めて失ったのです。
1月17日以降、生活がままならなかったぼくは、仕方なくその最悪な状況の実家に帰ることにしました。実家の周辺では、コンビニやスーパーで物が買え、飲食店で好きなものが食べられる状況がありました。その「日常」に触れた瞬間、ホッとしたのも事実です。しかし同時に、「神戸を見捨ててきたのではないか」「自分が怯えずに立ち上がっていれば、救える命もあったのではないか」という自責の念を覚えていました。
そこから2ヶ月くらいして、インフラもある程度回復し、神戸に「戻る」タイミングが来たとき、ぼくはまた怖くなりました。「また揺れるかもしれない」という恐怖はもちろんですが、それ以上に「見捨てた神戸にどの面を下げて戻るのだ」という思いが、想像以上に心の中で大きく膨らんでいたことをはっきりと自覚していました。その気持ちは、しばらく消えることはありませんでした。
今振り返ると、この罪悪感や恐怖は一種のPTSDだったのだと思います。表向きには被害が少なかったように見えたとしても、ぼくは確かに傷つき、何かを喪失していたのだろうと思います。
当時、子どもでもなく大人でもなく、かといって子どもでもあり大人でもあったぼくは確かに、怖かったし、辛かったし、ぼくのことを気にしてくれる人がいなくて、とても寂しかったのです。30年が経った今、ようやく当時の自分の気持ちを見つめることができるようになった気がします。