おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
今日は当社のご近所紹介。それも暗渠探索という地味なB級ローカル歴史ブログです? 昭和中期ごろ、神戸市と芦屋市の境に「傍示川」という小さな川があったそうです。今はほとんどが埋め立てられているのですが、消えた傍示川を追いかけてみました。
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傍示川の全貌をさぐる
神戸市東部では室町時代あたりから、耕作のために芦屋川からの派川がたくさん設けられたという歴史的な経緯があります。傍示川もそのような役割を担った川ではないかと勝手に思っています。
これは僕の推測の域を出ませんが、フィールドワークの結果、現在の地図にプロットすると傍示川は赤線のような流れだったのではないかと推測します。
今でも深江南町・平田町あたりでは、この川のあった場所が神戸市と芦屋市の境になっています。芦屋の川西町より山側は、住宅地化の影響か、かなり埋め立てられているようで、川の痕跡を探すことが困難でした。
手近に入手できる資料から見る傍示川
昭和58年6月5日号の「広報あしや」では、傍示川の河川改修工事の記事が載っています。
神戸深江生活文化史料館の展示資料にも、下記のようなものがありました。昭和10年代の深江の地図ですが、一番右端(赤線筆者)に、本庄村(現、神戸市深江一帯)と精道村(現、芦屋市)を分けるところに傍示川が書かれています。
また、同じく神戸深江生活文化史料館のまとめた「史料館だより第45号」にも、傍示川に関する記述がみられます。傍示川にかかわる部分だけ引用します。
昭和四十五年に津知川と傍示川は道路拡幅を目的として暗渠になりました。(中略)傍示川は元々川幅が二メートルに満たない川でしたから、暗渠にした部分を歩道とし、元の道の部分のみを車道とし南行きの一方通行道路となっています。(中略)北から南に流れる傍示川は、芦屋市津知町の境界付近で暗渠になると同時に西に折れ、少し流れて再び南に進みます。その結果、阪神電車軌道から海までの従来の流れは殆どなくなりました。ただ暗渠の下にはかつての水路が確保されて海辺では開口部があります。水が流れていた頃には河口に水門が設置されていましたが今では撤去されています。
「ほうじ川」か「ぼうじ川」か
ところで、この芦屋市と神戸市の境界である川の名前は「ぼうじ川」とも「ほうじ川」とも呼ばれています。同じ川でありながらその呼び名が異なるのは不思議なことです。傍示川は芦屋荘と本庄の境界であり、荘園の境を示す言葉で「ほうじ」が本来の読み方といいます。寛延三年(一七五〇)に本庄と芦屋との境界を定めた山争いの裁許絵図にも「傍示川」が登場し、裁許を下した奉行の印が押されていました。(後略)
では、海側から傍示川を探索してみましょう
海側(深江南町・平田町)
今は防潮堤のあるこの場所ですが、かつては傍示川の河口だったようです。ここ、ちょうど芦屋市と神戸市の境目なんですが、不自然にカーブしていてなんでだろ?と昔から思っていたのですけど、河口だったんですね。
この河口から山側を望みます。微妙な湾曲が川っぽさを醸し出していますね。
このあたりの傍示川は、まっすぐ南北に流れています。43号線すぐ南側はこんな感じですね。この歩道部分が暗渠でしょうか。昭和58年6月5日号の「広報あしや」によると、昭和54年度から43号線南側の改修工事が行われていますので、その頃にはこういう風景になったのでしょう。
国道43号線以北(平田北町・津知町・川西町)
国道43号線です。前述の「広報あしや」によると、この43号線横断と平田北町の改修は、昭和58年度に着工しています。「川を埋め立て」と書いていることからもわかるように、このあたりは川の名残がほとんど見つけられません。
川っぽいかな?と唯一思えるのは、阪神電車の橋梁ですね。かつては傍示川を渡る鉄橋だったのでしょう。
鳴尾御影線から南側を望んでいます。微妙な湾曲が川っぽい?
このもう少し北側から、川は北東方向に向きを変えます……が、川らしき名残はほとんど見られません。おそらく埋め立てられているのでしょう。川西町のところに、ほぼ唯一、傍示川の川面が現存しているところがあります(下記の地図参照)。この川の曲がりかたからいって、住宅地の中を突っ切っているのではないかと推察できます。(それにしてもえげつない曲がり方。人工的ですね)
川面の見える場所の最も南西よりの部分です。ここから暗渠になっていますね。
川面の見える場所です。この風景は、おそらく昭和の中期から変わっていないんでしょうね。ここに建物が立つと、また傍示川は一般の目には見えなくなってしまうでしょう。
2号線沿いの歩道から見下ろす傍示川です。かつては、芦屋川の土手の脇を流れていたのでしょうが、今は(国道の影響で)土手の上から下へと流れこむ形になっています。
国道2号線以北(前田町・月若町・西山町)
国道2号線以北にも名残は見られます。金網で仕切られていますが、この川幅は(国道以南の川幅と)同じですね。
JR東海道線ですが、ここでは鉄橋があることがはっきりわかります。この奥(JRよりも北側)は、かつての川の上に建造物が見えます。川の上に建造物を建てるのって、結構いろんなところで見るのですが(例えば那覇の水上店舗)、どういうことなんでしょうね……(違法じゃないのか?)
川があったとおぼしき場所をさらに山側へ歩くと、山手幹線に突き当たります。写真のすぐ右手が芦屋川隧道です。芦屋市付近の山手幹線は2007年に開通していますので、この工事をしたときに傍示川は分断されているのでしょう。
山手幹線の北側にも、多少の名残はあります。もうほとんど側溝なんですけど、たぶんこれは傍示川です。
阪急電車の鉄橋です。かなり古い鉄橋ですね。路面の溝のグレーチングが2方向に分岐しています。
鉄橋の下は、生活排水なのか、水が流れています。
さて、阪急電車の鉄橋を超えたあたりから追跡が難しくなります。1945年頃の航空写真を見てみると、阪急の少し北側から、北東方向に急に向きを変えているように見えます(川岸と思われる茂みの向きが北東になっている)。おそらくかつては芦屋川から取水していたのではないかと思われますが……どうでしょうか。
しかしここのあたりも住宅地化で埋め立てをしたのか、川の痕跡を探すことが困難です。それっぽいなあ……と思えるのが、西山町のある建物の構造なのですが、いかにもな幅の路地がありました。位置的にも向きとしても、ぴったりだと思うんだけどなあ。
取水口の跡がないかと芦屋川まで来ましたが……特に見当たりません。右手に排水溝はありますが、位置的にもちょっと違うように思えます。
その痕跡もほとんどがわからなくなりつつあって、歴史に埋もれかかっているといっても過言ではありませんね。