補助金に関連する当ページの情報について
当ページの記載事項に基づいてすべてを判断せず、必ず公募要領を確認してください。当社ページの見解に従った結果、不採択となった場合も、当社は責任を負いかねます。このページの情報や見解は、予告なしに変更することがあります。

ブログ

【当社のご近所紹介】条里制の遺構?神戸市内を東西に流れる謎の川「横川」の真実

https://imamura-net.com

おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。

誰も興味のないであろう、ご当地暗渠探索ブログの時間がやってまいりました? 六甲山のふもとでは、山から海に向かって川が流れるのが普通なのですが、なぜか東西に流れる川が当社のご近所にあります。その起源は、5世紀~10世紀ごろの条里制にあるかもしれない……とのこと。早速探索します!

スポンサーリンク

横川とは

横川は、東灘区深江付近を流れる高橋川の傍流です。下記の地図を見るとよくわかりますが、ちょうど深江駅の少し北側で高橋川と別れ、そこから300メートルほど、西に向かって伸びています。そこから流れは南北へと向きを変えています。この流れ方、不自然で人工的な香りがしますよね。

写真では方向はわかりにくいですが、白鴎橋付近から西を眺めているところです。

実際に横川を歩くと、このような案内板があります。ここにはっきりと「条里制のなごり」ではないかと書かれていますね。

要玄寺川(横川)

このあたりの要玄寺川は横川と呼ばれるように、北から南に流れず約300メートルにわたって東西に流れている。これは律令制のもとに作られた条里制の名残と言われている。この川が条里制の区画の境として、又、他に水を引く水路として使用されたものと思われる。昭和以前には現在よりもやや北を流れており、長さも1キロメートル以上東西に流れていた。

条里制とは、古代の土地区画制度で、1町(約109m)四方の区画を「坪」と呼び、坪を6×6に並べた区画で、横列を条、縦列を里と呼ぶものです。明治時代まで小字名として、条里制時代の名残と思われる名称が、この付近に残っています。今でも橋の名称、公園の名称、交差点の名称、踏切の名称などにこれらの小字名が見られますよ。

ちなみに深江付近(昔の莵原郡)で、いつ条里制に基づく土地の区割りが行われたのかは記録がなく、さだかではないようです。おおざっぱに言って5世紀から10世紀くらいの間ではないかと思われますが……(おおざっぱすぎますね?)

現在よりも北を流れていた旧横川

ところで、上記の案内板には「昭和以前には現在よりもやや北を流れており、長さも1キロメートル以上東西に流れていた」と書かれています。これがどこだったかを探しあてるというのが、当ブログの今回の目的です。まずは旧来の流れのわかるものを用意しなければなりませんが、明治10年頃の絵図から推察をしましょう。下記の図の「横川」と書かれているところが、旧横川だと思われます。

もうひとつ。1926年(大正15年)に陸軍が作成した測図も見てみましょうか。測図だけあって、こちらのほうが正確ですね。

また、兵庫県が作成した高橋川水系の整備計画資料にも、下記のような記述を見つけました。

現在、高橋川水系の西側に位置する天上川は、南方向に下り、海に注いでいるが、昭和2年(1927)までは、東に直角に曲がり、要玄寺川や串田川・四ツ松川と合流して、高橋川となり、海に注いでいた。この等高線に沿って流れる部分を横川と呼び、現在より100m程、北側を流れていた。横川は、高低差が少なく、土砂が溜まりやすいため、水害の原因となり、再三、付替え計画が持ち上がった。長年の地域の要望であった横川の付替えは、昭和2年に天上川の改修として実施された。

これがなかなか難しいんですよね。1879年や1926年の地図を見ると、福井池(左側の長方形の青色の部分)の北側に流れ込んでいるように見えるので、現在の中野南公園・本山南小・小寄公園に沿う道路と推定するのが一番しっくりくるのですが、それだと兵庫県の資料にある「現在より100m程、北側」と矛盾します。(現在の中野南公園・本山南小・小寄公園に沿う道路は、現在の横川から180mほど離れています)。兵庫県の資料にある説明を信じると、現在の中野南公園・本山南小・小寄公園に沿う道路よりも、ずっと南側になります。

いろいろ考えたのですが、僕個人の考えとしては1879年や1926年の地図をベースにして、下記のルートだったのではないかと推察することにしました。

旧横川を探してフィールドワークへ

旧横川と高橋川との分岐は、現在の出合橋付近ではないかと思われます。ここから北西方向、白鴎橋方向に旧横川は流れていたのだと思われます。

商船大学筋(2号線の籾取の交差点から南にいったところ)と旧横川の合流地点と思われるところです。このあたりから旧横川は西に進んでいったものと推察します。現在では工場が立っていますが、昭和初期は田畑だったはずです。旧横川がなくなり、水を取水できなくなった農地が工業化したのでしょうか。

旧横川が要玄寺川に突き当たるところに中野南公園がありますが、そこには土地区割整理記念碑があります。昭和10年起工で昭和12年に完成と書かれていますので、横川の付け替え後に建てられたものでしょう。しかし、この付近でこの時期、大規模な土地改良工事が行われたことがわかりますね。

また、ここはいびつな曲がり方をしているんですよね。1926年の陸軍の測図を見ると、旧横川は現在の中野南公園を貫いていたように見えます。区画を整理する際に、道路を曲げたのではないかと思われますね。ちなみに現在の地図を見ても、不自然に曲がっています。(一つ北側の一の坪橋のところも湾曲してますよね)

そしてこれが問題の橋(大町橋)のあたりです。不自然な湾曲、不自然な高低差があります。

それをさらにまっすぐ行くと、片側2車線の大きめの道路に出ます。この道、名称がないんですよね。田中や剣のあたりの同じ規模の道には十二間道路という名称がついているんですけどね。ところでこのあたりの旧横川も、両側2車線と幅広になっています。なぜだか、大町橋から福池小学校のところまでだけが2車線なのです。

小寄公園(旧、本山交通公園)と福池小学校の北側です。小寄公園と福池小学校は、かつては福池・福井池と呼ばれる大きなため池だったと推測される場所です。この辺りで横川は池に合流していたのではないかと思われます。

現在の福井池公園です。かつてはここに大きなため池(福井池とも福池とも)があったそうです。旧横川は、福井池・福池を通じて、天井川にも繋がっていました。

河川の付け替え工事をすると、古い川は完全に埋め立てられてしまうので、痕跡を探すのが困難ですね。今回の探索は結構大変でした?

スポンサーリンク

スポンサーリンク

最近の人気記事

1

「事業再構築補助金」は制度開始から3年目を迎えました。多くの中小企業に知られるようになった事業再構築補助金ですが、このページでは2023年の制度の全容を10分でわかるようにまとめて解説します。 「事業 ...

2

「ものづくり補助金」は制度開始から11年目を迎えました。中小企業政策で最もよく知られているといってもいい「ものづくり補助金」ですが、このページでは2023年の制度の全容を10分でわかるようにまとめて解 ...

3

おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。 先日、納税地の所轄税務署から「消費税課税事業者届出書の提出について」という文書がきました。個人事業主は、ある期間の課税売上高が1,00 ...

-ブログ

© 2024 Management Office Imamura Ltd.