おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
年末に、片渕須直監督の映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を観ました。前作も今作も大好きな作品なんです? 戦争を生きる人々の群像劇という意味合いの強くなった今作を観て、影響を受けやすい僕は、さっそくご近所の戦争遺産を探しに行ったのでした。
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神戸市内でもかなり激しい空襲を受けた深江
神戸も何度も空襲を受けていますが、当社所在地の深江(当時は神戸市編入前で、本庄村であった)はかなり激しい空襲を受けています。その理由は、近くに川西航空機甲南工場があったためですね。川西航空機では二式飛行艇や極光といった海軍の航空機を製造していました。川西航空機が爆撃目標でしたが、そこからそれた爆弾が深江の集落を襲ったのです。(もっとも、川西航空機を目標としたのは5月11日の空襲であり、それ以降の空襲は住宅地を目標としたものでしたが。
深江に大きな被害をもたらした空襲は、5月11日、6月5日、8月6日の空襲です。
住民の3%強が空襲で亡くなった村
主だった3回の空襲における、本庄村(現深江、青木、西青木の3地区)の被害状況を観てみましょう。
死者 | 重傷 | 軽症 | 全半焼 | 全半壊 | 罹災者 | |
---|---|---|---|---|---|---|
5/11 | 371 | 50 | 47 | 103 | 732 | 4,000 |
6/5 | 8 | 10 | 13 | 205 | - | 1,800 |
8/6 | 56 | 20 | 85 | 1,080 | - | 4,050 |
合計 | 435 | 80 | 145 | 1,388 | 732 | 9,850 |
(出典:本庄村史編纂委員会編『本庄村史 歴史編―神戸市東灘区深江・青木・西青木の歩み―』2008年)
本庄村は、昭和15年(1940年)の国勢調査によると、人口13,739人であったそうです。この数字を使って推計すると、住民の死亡率は3.2%、死傷率は4.8%であり、これは東灘区内の旧町村(御影町、魚崎町、本山村、住吉村、本庄村)のなかで最も高いものだったそうです(前述『本庄村史』より)
戦争遺産その1:本庄村共同墓地
阪神電車からもよく見えるのがこの本庄村の共同墓地です。ここは深江、青木、西青木の3地区の共同墓地です。
空襲犠牲者の慰霊碑がありますね。
墓地なので、もちろん空襲で犠牲になった方がこの墓地に眠っているわけです。深江生活文化資料館編『生活文化史<資料館だより>2018.3.31 No.46』では戦時中のエピソードが掲載されていますが、この近所(現在の本山南町6丁目付近)に火葬場があり、被災者はそこでされた後、この墓地に埋葬されたそうです。
(なお、下記の資料内の別のエピソードによると、この墓地にも5月11日の空襲で爆弾が落ち、至近弾をあびたと思しき人がバラバラになって亡くなったということが書かれています)
今はもう本山南町6丁目に火葬場はありません。火葬場の供養塔は墓地内にあります。
ところで、この墓地には米軍人も埋葬されている可能性があります。POW研究会のホームページによると、次のような記述があります。
機長のWILKINSONなど11人全員死亡。Alfred F.KNIZNICK中尉の遺体が、6月14日に兵庫県本庄村に漂着、深江の公共墓地に埋葬。Thomas A.SPENCER軍曹、Richard J.POULSEN中尉、Robert M.HASSAN軍曹の遺体が6月17〜19日に淡路島に漂着、津名郡浦村や塩田村の公共墓地に埋葬。その他の乗員の遺体は不明。
墓地内を探したのですが、さすがに米軍人の墓標は見つかりませんね。場所によっては供養塔などをたてる地区もあるのですが、官憲の目もあったでしょうし、5月11日の空襲で大きな被害を受けていたので、被害者感情からも供養をすることは抵抗があったのかもしれません。
戦争遺産その2:川西航空機甲南工場(現、新明和工業甲南工場)
爆撃のターゲットとなった川西航空機甲南工場は、現在も新明和工業甲南工場として飛行艇(US-2)を製造しています。米軍の資料(作戦任務報告第172号から)によると、5月11日の空襲で、工場の約39%を破損・破壊したそうです。
現在の甲南工場を海側見るとこんな感じです。たまにテスト飛行をしています。当時、このあたり(というか日本の主要港湾はほぼ軒並みに)機雷封鎖されており、この海にも無数の機雷があったはずです。掃海が完了したのは(うろ覚えで出典不明ですが)昭和27年頃だったのではないかと記憶しています。
戦争遺産その3:本庄国民学校(現、本庄中学校、本庄小学校)
川西航空機甲南工場から500mほど離れたところに本庄国民学校(現、本庄中学校と本庄小学校)がありました。このあたりは本庄村の地理的な中心にあり、深江と青木から通学してくる生徒が約2,000名ほどいたそうです。ただし大半は疎開をしており、5月11日の空襲の時点で学校に残留していたのは100名程度だったそうです。
本庄小学校の沿革史によると、校舎への直撃弾が4発、校庭への着弾が8発で、ほぼ全焼したそうです。空襲警報が発令されて、生徒を帰宅させたので、学校における生徒の死傷はなかったようですが、帰宅後に防空壕等で死亡した生徒が11名(後の死亡も含めると14名)いたそうです。
当時の写真を見ると焼け野原ですね。
この写真と同じアングルと思われる場所から撮影した現在の姿です。学校が見えませんが……?それだけ焼け野原から復興したということでもありますね。
本庄中学校(手前)と本庄小学校(奥)の校舎です。本庄小学校、中学校は、阪神淡路大震災でも被災し、建て替えられています。阪神淡路大震災でも在校生が小中あわせて12名亡くなっています。
本庄小学校の屋根にはユニークな意匠の塔のようなものがあります。空襲で焼けた校舎にも教育の指針のシンボルとして「五輪の塔」があったそうですが、おそらく新しい校舎になっても、当時の意匠を引き継いでいるのだと思います。
戦争遺産その4:大日霊女神社
深江駅の南側、西国浜海道にそってあるのが大日霊女神社ですが、ここは8月6日の空襲(焼夷弾による空襲)で全焼しました。ここも震災で倒壊をしたので、戦時中の面影を残すものはあまりありません。この石灯籠が大正11年(1922年)に寄進されたもののようですから、おそらく戦火を浴びたのだと思われます。(ちょっと焦げ跡のようなものが見られる気もします)
戦争遺産その5:B29のおとしもの
深江浜町にある小野建㈱神戸営業所の敷地内には「B29のおとしもの」という表記とともに、何やらフタのようなものが掲示されています。
樹木に覆い隠されているのでうまく撮るのが難しいのですが、フタのようなものを接写しました。
これは、小野建㈱の前進(事業を譲渡した会社)であるナダコーという会社が、阪神淡路大震災で被災した建物の建て替え工事中に発掘されたものだそうです。ナダコー社は灘区の会社だったようですので、ここで発掘されたものではなさそうですね。(この辺は海でしたからね)
これはおそらく焼夷弾の収束容器弾頭部分の部品(オモリ)ではないかと思います。
ところで神戸空襲で使われた焼夷弾の種類は下記なんだそうです(神戸市文書館のページ参照)。僕は焼夷弾のことはよく知らないので、これ以上の推察はできません?
M47A2 100ポンド焼夷弾 [70 ポンド 31.8kg]
ナパーム焼夷弾。搭載にはT19集束器で6発ずつ束ねて懸架。M76 500ポンド焼夷弾 [480ポンド 217.9kg]
大型ナパーム・マグネシウム焼夷弾E28 500ポンド集束焼夷弾 [350ポンド 158.9kg]
E36 500ポンド集束焼夷弾 [360ポンド 163.4kg]
E46 500ポンド集束焼夷弾 [425ポンド 193.0kg]
E48 500ポンド集束焼夷弾 [515ポンド 233.8kg]
六角形の6ポンド(2.7kg)焼夷弾(M69)を38発内蔵したクラスター(親子)焼夷弾。
ゼリー状のナパーム剤を内蔵。(E28、E36、E46)
E48は、8.7ポンド(3.9kg)のナパーム黄燐焼夷弾(M74)を38発内蔵。
焼夷弾はクラスターになっていて、分離した焼夷弾は落下して家屋を燃やします。上空から落下してくるのですからかなりの運動量であり、木造家屋の屋根を突き破ります。『この世界の片隅に』でも描写がありましたね。もちろん鉄板もぶち抜きますし、人にあたると突き刺さって即死して、その上で燃えます。一方、爆弾の炸裂は、破片が凶器になります。爆風で飛ばされた金属の破片にあたると、刀でスパッと切ったような切り口になるそうです。爆圧や風圧も凶器となり、内蔵が破裂したり、目が飛び出たりするそうです。
恐ろしいですよね。さっきまで生きていた肉親、隣人、友人、同級生がこんな凄惨な死に方をするのですからね。そして、そういう凄惨な悲劇が400名以上に降り注ぎ、今僕が仕事をしているこの町で亡くなったというのは、今この町に立つと信じられない気がします。でも全て実際に、この世界の片隅であるこの町で起きたことなんですよね。
そうした出来事が起きたことを忘れないことが、現代世界の片隅に生きる我々にできることでじゃないかと思います。