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【当社のご近所紹介】戦国時代の古城 芦屋・鷹尾城を歩く

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おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。

みなさん、3連休はいかがお過ごしですか?僕は近所の古城までぶらぶらと歩いていきました。当社の近所(と言っても芦屋市ですが)には、戦国時代の古城があります。当時の遺構が残るお城ですのでちょっと紹介をしてみたいと思います。

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城山・鷹尾山古城について

城山・鷹尾山古城は、戦国時代の「両細川の乱」の際に築城されました。管領である細川京兆家の家督争いに端を発する戦乱ですね。両細川の乱では、今の阪神間から京都にかけてが戦場になったようです。wikiページに書かれている概要を引用します。

鷹尾城(たかおじょう)は兵庫県芦屋市にある日本の城跡。山城部分を「鷹尾城山城」平城部分を「芦屋城」と区別していうこともある。阿波の細川澄元の畿内進出の防衛最前線基地として、細川高国が「鷹尾山の天険を利用して、早急に山城を築け」と瓦林正頼に命じたと言われている。

ところで、芦屋と言えば、観応の擾乱でも打出浜の戦いが起きています。古来からの山陽道(西国街道)があり、平地が限られているこの辺りでは、戦闘になりやすかったのでしょうね。

鷹尾城の場所はこちらです。ちなみに「鷹尾山」と書かれていますが、城の遺構があるのは現在の名称でいう「城山」(標高262.1m)です。城山の北側に「鷹尾山」(標高271.8m)がありますが、鷹尾山では城の遺構は見つかっていないようです。

鷹尾城の遺構については、「ひょうごの城紀行(上)」(のじぎく文庫)に詳しく図解されています。こちらも引用します。本投稿ではこの図に沿って解説しますね。

登山道にて

まず阪急芦屋川駅から徒歩20分くらいで登山道につきます。正面に見えるのが城山です。

途中までは、有名な「高座の滝」「ロックガーデン」に向かう道なのですが、山芦屋町で城山へ向かう道と分岐します。分岐点にはご丁寧に看板があるのでわかりやすいですね。

ここからが山道です。この撮影をしたときはまだ早朝で薄暗かったので、なかなか怖かったです?

登山道で見られる遺構

登山道でまず目につくのは、岩肌が多いということです。実はこの山は、大坂の陣の後に徳川氏によって大坂城が再建される際、石切り場だったようです。調べてみると、城山だけではなく、六甲山系全般から石が切り出されたようですね。この城山で切り出された石は、芦屋川から海を経て、大阪に搬入されたのではとみられています(「本庄村史」より)

写真には撮っていませんが、登山道がよく整備されており、ところどころに石垣があります。この登山道や石垣は戦国時代の遺構ではないようです。第二次世界大戦の際に、城山に高射砲施設が建てられたそうで、その際に軍が資材の搬入などを行った際に作られたものだろうと推察されています。

いろいろ調べてみると、どうもこの城山には高射砲第122連隊か123連隊による聴音施設があったのでは……と見られています。聴音施設とは、夜間や悪天候などで高射砲の成果(敵の飛行機に当たったかどうか)がわからないケースがあるので、音でその判定をする施設です。大きな聴音機が設置されていたのでしょう。

神戸や阪神間には、高射砲部隊がありました。これは住民を守るためというよりかは、阪神間にあった軍需工場(特に川西航空機。現在の新明和工業)を保護する目的だったようです。先日訪問した「深江生活文化資料館」の古地図にも深江の海岸線に戦時中に高射砲施設があったと書かれていました。おそらく深江にあったのは探照施設(サーチライト)だと思われます。

登山道をのぼり、山頂の少し下あたりに、戦国時代の遺構と思われる堀切がありました。「ひょうごの城紀行」の現状図でも書かれている堀切Eではないかと思われます。土塁の上から撮影しました。ここが山頂の曲輪にたどり着かせないための防衛線だったのでしょう。もしくは虎口(出入口)があったのかもしれません。

そうこうしているうちに、山頂のテレビ塔が見えてきました。現代でもテレビ塔があるくらいですから、当時にしても見晴らしがよい、さえぎるもののない場所として、軍事的な価値があったのでしょうね。

数々残る山頂の遺構

遺構は山頂に数多く残されています。山頂は3つの曲輪(堀や壁などで区切られた区画)から構成されていたようです。山頂から西側の眺めです。両細川の乱では、阿波の細川澄元の軍勢は、阿波から兵庫(兵庫津。現在の中央市場付近)に上陸して上京を目指していたということですから、この視点の方角から敵が向かってくるのが見えたはずです。向こう側の尾根には、弥生時代の高地性集落跡として有名が会下山遺跡があります。

山頂付近には、数条の堀切や土塁があります。曲輪Ⅱのすぐ北側の堀切Aはこんな感じでした。写真じゃわかりづらいですが?

そして特徴的なのが、曲輪Ⅱと曲輪Ⅰの西側にある、二重の横堀状遺構です。写真ではわかりづらいですが、土塁に挟まれて横堀があります。土塁fの向こう側にも、もうひとつ横堀があるんですよ。

堀におりて撮影しました。はっきりと残ってるでしょ?

現場に立つと、あまりにはっきりと残りすぎていることがわかります。調べてみると、この横堀状遺構は戦国時代の遺構ではなく、第二次世界大戦時に軍が高射砲施設を建設した際の塹壕跡ではないかということです。(詳細は不明だそうですが)

城山の北側、鷹尾山まで歩く

城山の北側には別の峰である鷹尾山があります。鷹尾山には城の遺構は見つかっていないようです。「ひょうごの城紀行」にも書かれていましたが、城の北側(六甲山側)には遺構がなく、どうも無防備だったのではないかと推察されていました。鷹尾山は(見つかっていないだけかもしれませんが)どうも防御が甘い城だったようで、籠城のための城というよりは、監視のための支城だったのかもしれません。本城は西宮の越水にあった越水城だと言われています。西から来る阿波勢の動向を監視して、本城に伝えるというのが主な役割だったのかもしれません。

ここが鷹尾山の山頂です。

見晴らしは本当にいいんですよ。荒地山のほうを望んでいます。

そして海側を望む。西宮や尼崎、大阪方面まで丸見えです。

灘五郷や深江の地侍にも攻められていた

この鷹尾城は、どうも灘五郷や深江の地侍にも攻められていたようです。ここに城ができると戦乱になる可能性が高くなりますし、城の外堀工事で用水不足になるという懸念があったらしく、地侍2,000名ほどが城を攻めたという記録が残っているそうです(城は落ちなかったようですが)。

灘五郷といえば酒どころとして有名ですが、この当時はどうも「惣村」だったようで、武装した百姓の集団でもあったようですね。当時の日本人は、権力者に対しても、自分たちに不利益だと思うと容赦ない行動に出てますね。中世日本人はたくましいですね。

土地に歴史あり、です。また一つ地域のことに詳しくなりました?

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