おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
大型連休ですが、お出かけができなくて辛いですね?せめてお出かけした気分になろう!ということで、2016年に橋本から鳥羽までを戦跡巡りをしたときの写真を紹介したいと思います。(誰も興味がないであろう自己満足企画です)
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だいたいこんなところを歩きました(20kmくらい?)
2016年5月2日、京阪橋本駅から旧京街道を伏見へ、その後鳥羽街道を小枝橋まで歩きました。小枝橋は、1868年(慶応4年)に鳥羽・伏見の戦いの火蓋がきられた場所です。旧幕府軍の敗走ルートをさかのぼる感じで歩きました。
参考までに、鳥羽伏見の戦いにおいて、戦闘が行われた主な場所の図を見てみましょうか。
橋本の戦いと橋本遊郭
橋本の戦いが行われたのは1868年1月6日。開戦から4日目です。徳川慶喜が大阪城を退去したのが1月6日まさにその日ですから、鳥羽伏見の戦いも大詰めでの戦いが橋本で行われました。
ご承知の通り、橋本の戦いでも旧幕府軍は敗走するわけですが、その最大の契機が、淀川を挟んで対岸を守備していた津藩(藤堂家)が橋本・樟葉の旧幕府軍に砲撃を加えたことでした。正面からは薩長が、そして側面からは津藩に挟撃されたことで潰走したんでしょうね。今ではあまりピンときませんが、当時は樟葉と山崎に砲台があったんですよ。外国と戦闘になった際、外国船が淀川を上り京へ向かうのを阻止するための台場でした(建設責任者は勝海舟でした)。
また、かつてこの橋本には遊郭もありました。江戸時代からの由緒正しい遊郭で、井原西鶴「好色一代男」の舞台にもなりました。戦後の売春禁止法により廃れてしまいましたけどね。鳥羽・伏見の戦いのときには津藩の砲撃により、街は焼けてしまったようです。遊女も逃げ惑ったことでしょう。
遊郭としては完全に廃れきっていますが、趣が残っています。
橋本から京街道を少し京都に向けて進むと、石清水八幡宮があります。橋本の戦いでは、ここが旧幕府軍と新政府軍との最前線になりました。一方的に負けているイメージのある旧幕府軍ですが、ここでは踏みとどまっていて、膠着状態になっています。石清水八幡宮は、禁門の変(1864年)のときには、長州軍が軍議を開いているところでもありますね。
淀・千両松の戦い
淀・千両松の戦いが行われたのは1868年1月5日。開戦から3日目です。鳥羽と伏見から敗走した旧幕府軍は、立て直しのためにここに陣を敷きました。背後には譜代の淀藩の城がある上、当時の千両松は湿地帯(巨椋池)の間にある狭い堤防道であり、迎撃にはもってこいの場所だったんですね。ここでも善戦してますが、火力に押し切られて敗走します。敗走した旧幕府軍は、淀城への入城を要求するも、淀藩首脳はこれを拒否。旧幕府軍は橋本へ退却しました。このときの殿(しんがり)は新選組。僕は一時期、新選組にハマっていたので、千両松は思い入れが深いんですよね。(結成当初からの幹部である井上源三郎がここで戦死している)
千両松町という町名が残っています。
激戦地であった証拠として、慰霊碑もありますね。ちょうどこの写真をとっている時、この慰霊碑の周りを道路工事していたのですが、工事業者がこの写真を撮る僕を怪訝そうな顔で見ていました?(完全に不審者)。この碑、確か幽霊伝説があるんですよね。
京阪の踏切にも残る「千両松」の地名。
伏見の戦い
1868年1月3日~4日にかけて、伏見で戦闘がありました。口火を切ったのは鳥羽・小枝橋ですが、その砲撃の音が伏見に聞こえるやいなや、伏見でも戦闘がありました。2日間にわたる市街戦です。
下記の写真は、伏見の西側、伏見港と市街地を結ぶ京橋のたもとにある碑です。この碑の説明板には次のように書いています。
幕末の慶応4年(1868年)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここ伏見御堂を宿陣として戦った。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面に敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けた。
このあたりは激しい砲撃戦により、民家が焼かれたとあります。伏見の戦いは、司令官である竹中重固(戦国時代の有名な軍師、竹中半兵衛の家系で、幕府の旗本)が戦線離脱したため、旧幕府軍が瓦解しました。
この橋のたもとからは、運河に降りることができます。
15kmくらい歩いて疲れたので、黄桜カッパファクトリーで喉を潤します?
鳥羽の戦い
最後に、鳥羽・伏見の戦いで開戦の契機となった、小枝橋を目指します。下記の写真は鳥羽街道ですが、旧幕府軍はこの街道を列をなして、しかも攻撃準備をせずに京へ向かいました。この先の小枝橋で、京へ入ろうとする旧幕府軍と薩軍との間で「通せ」「通さない」の押し問答がありました。1月3日の午後5時ごろ、強行突破しようとした旧幕府軍に対して薩軍が砲撃。攻撃準備をしていなかった旧幕府軍は大混乱になりました。
鳥羽方面の司令官は滝川具挙。織田信長の家臣である滝川一益の家系の旗本です(正確に言うと滝川一益の娘婿の家系)。旧幕府軍は「戦闘にはならないだろう」と踏んでいたのだと言われています。兵数としては旧幕府軍が圧倒的でしたからね。(旧幕府側の1万5000に対し、新政府(薩長)側は4~5000程度)
小枝橋のたもとにある「鳥羽・伏見の戦い 勃発の地」の説明板です。
ここが現在の小枝橋です。当時は現在の小枝橋よりも、すこし南側(この写真でいうと左側)に橋がかかっていたそうです。
あーあ、はやくまた街歩きがしたいなあ?