おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
当社のご近所紹介ブログです。当社所在地(東灘区深江本町)あたりは戦前・戦中、軍需工場の近くということで爆撃のターゲットとなっていました。防空のために高角砲(高射砲の海軍での呼び名)陸上陣地が構築されていたのですが、当社から徒歩5分ほどのところに海軍の高角砲陣地があったようです。
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史料に見る高角砲陣地
神戸深江生活文化史料館の史料によると、深江浜の高角砲陣地については下記のような記述があります。
高橋の港を右に見て海岸付近に突き当たったところから、東に向って防潮堤が伸びています。ここにある海への開口部は、深江の海岸に造られた五つの開口部のひとつで一番西に位置するものです。開口部は海に向って一・五Mほどの幅で開かれて 海側の一○段ばかりの階段を下りれば砂浜におり立つことができます。(中略)この地には旧日本海軍の対空砲が据えられた高射砲陣地(海軍では高角砲という)がありました。戦中を知る人は「高射砲陣地があって海軍の兵隊さんがいた」といいます。この海岸のすぐ近くに海軍の航空機を製作していた川西航空機甲南工場があり、その防御のために設けられた陣地です。
この説明をもとに、1948年2月20日に米軍が撮影した航空写真を見てみましょう。防潮堤群の一番西に位置する(最も高橋川河口に近いところ)の海岸近くに高角砲陣地があったという記述ですから、航空写真で見ると下記のあたりでしょうね。
現在の地図ではこの辺ですね。
この場所に高角砲陣地があったことは、別の資料からも裏付けられます。同じく、神戸深江生活文化史料館の展示物なのですが、昭和10年ごろの深江周辺の地図(当時を知る人による聞き取りで再現した図)にも、その記述がみられます。(赤丸内に「戦中 高射砲陣地」とありますね)
爆撃のターゲットとなった深江
上述の通り、軍需工場(川西航空機甲南工場)があったため、この辺りは米軍の攻撃目標となっていました。甲南製作所では二式飛行艇と極光が製作されていたそうです。今も新明和工業ではUS-2という飛行艇をこの甲南工場で作ってますね。1945年5月11日、甲南工場はB-29の精密爆撃を受けました。その時、爆撃隊は、森稲荷神社の赤鳥居を目印にしたと言われています。赤鳥居は、現在の国道2号線の交差点名にもあり、国道沿いによく目立つ形で現存しています。
こういう説明書きもありますね。この時、本庄地区を爆撃した第58航空団は、高度16,000フィート~19,000フィート(およそ5,000メートル)という中高度からの爆撃だったようです。その程度ならば、この小さな鳥居も目視確認できたことでしょう。
もちろん精密爆撃といっても、工場からそれた爆弾は住宅地を襲います。神戸市の被害に関する兵庫県警察部の提出資料では、死者405人、負傷530人、「焼け出され」20351人、疎開者1021人。『本庄村誌 歴史編』によると、本庄村の死者371人、魚崎町60人、本山村84人、芦屋町39人、西宮市85人の数字を掲げています。
高角砲陣地跡を訪ねる
まず、当時はどのような風景だったのでしょうか。神戸深江生活文化史料館「史料館だより」NO.41から引用します。
ここと推定される現在の風景が下記の写真です。面影はほとんどありませんが、防潮堤のカーブのかたち(右に湾曲している)がかろうじてわかる程度ですね。
「史料館だより」によると、高角砲陣地は敗戦と同時に撤去されたのだろうと推測しています。しかし昭和35年ごろまでは防空壕(陣地守備兵士の退避壕)は残っていたようですね。
なぜ海軍の高角砲陣地?陸軍は何をしていたのか
疑問なのは、なぜ海軍の高角砲陣地だったのか、ということです。上述の通り、海軍機を製造していた川西航空機甲南工場防衛のためでしょう。海軍の高角砲は、一般的には艦載の高角砲なのですが、一部は拠点において揚陸され、防衛用の陸砲として用いられるものもあったようです。深江浜の高角砲陣地はまさにその用途で使われたのでしょう。
一方の陸軍はというと、高射第3師団第123連隊が東神戸の防空にあたっていました。あまりよく調べてはいませんが、やはり芦屋や深江、青木などに高射砲陣地(砲座だけでなく探照施設も)あったようです。以前に紹介した、芦屋の城山には聴音施設があったようですし、陸軍は陸軍で役割を遂行していたのでしょう。1945年5月11日の空襲では、高射123連隊と海軍高角砲隊がそれぞれに迎撃にあたったものだと推察されます。ここからは邪推ですが、おそらく連携も情報交換もろくには行われなかったのではないかという気がします。(仲悪いですからね……)