おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロです。先日、人間関係のトラブルに遭遇して、ひねもすイライラしてしまいました。しかしイライラの中にも自己嫌悪も含まれていたりと、結構複雑な心情をするんですよ。なんでこんなことが起きたのでしょう?
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「殴られたら殴り返せ」と心の声がする
僕が遭遇した揉め事というのは、ごくごく簡単にいうと、相手方にウソをつかれたということです。当初していた約束を反故にされたわけです。まあもともと信用していない人でしたけど、まさかあからさまにウソをとは思っていませんでした。
で、約束を反故にされた僕は
「ウソつきは死すべし!目には目を!歯には歯を!殴られたんだから殴り返せ!!」
という気持ちが続々と湧いてくるんですよね(←執念深い)。
しかし相手をぶん殴ってやりたいと思う反面、「相手に舐められる僕が悪い」「僕にも隙きがあった」「僕のふてぶてしい態度が、相手がウソをついてまで僕を追い詰めようとする原因なんだ」という自己嫌悪に襲われていて、それはそれはキツかったんですよ。
この世の中は公平なはずだという僕の思い込み
「ウソつきは死すべし」「ウソをつかれた僕が悪い」という思いがどこからくるかというと、「この世の中は公平なはずだ」という僕の頭のなかにある世界観から来ているのだと思います。
『本来、この世の中は公平なのだ。だから、ウソをつくような、不公平な奴らは、罰せられて当然なのだ』という世界観ですね。
一方で真逆のことも思うんですよ。僕はウソをつかれたわけですけど、「自分に落ち度があったのでウソをつかれた。自分に落ち度がなければウソはつかれなかったはずだ。だから自業自得だ」と思うことによって、僕の頭のなかにある公平な世界を維持することができるわけですよ。
僕自身を悪者にしてまでも守りたい世界観ってすごくないですか?💦
というわけで、憎しみと自己嫌悪の根っこは同じで、それは「この世界は公平なはずだ」という思い込みなんだと思います。そしてこういう世界観のことを「公正世界仮説」と呼ぶんだそうです。これは僕だけではなくて人間のもつバイアスの一つです。例えば新型コロナウイルスに感染した人を非難する論調ってありますよね。「外出したから感染したんだ。だからお前が悪い」みたいなやつですけど、悪い何かをしたから(原因)、悪いことが起きたのだ(結果)。よい行いをしていれば、悪いことなど起きるはずがない、というシンプルな因果関係を信じてしまいたくなる心理のことですね。
公平ではない現実世界
しかし、現実世界は公平ではありません。何の落ち度もないのに、事故や災害や亡くなるひとなどゴマンといます。ブラック企業がそこかしこに存在するように、悪がのさばっている例など、そこかしこにありますよね。
勧善懲悪という世界であってほしい気持ちはわかるけれども、そもそも善とは何か?悪とは何か?自分は完全なる善だと言えるのか?と、考えれば考えるほど、確かなことが言えなくなってきます。
おそらく現実世界というのは、そんなシンプルなものではなく、誰が見ても普遍的な善と言うものはないし、同じように普遍的な悪もないのでしょう。のさばる悪もあれば、成敗される悪もある。個々の背景や事情、環境があって、「勧善懲悪」などと一言で言えるような単純なものではないというのがこの世界なのだと思います。
その現実を無視して、「ウソつきは死すべし」「ウソをつかれた僕が悪い」と反射的に考えてしまうのは僕の悪い癖であり、おそらく「相手方が本当にウソをついたのかどうなのかは闇の中だし、仮にそれがウソであっても、ウソつきが成敗されるか、僕が先にくたばるかは、誰もわからない」というのが、より現実的に世界を捕らえているんじゃないかとも思います。(冷静になって考えればですけどね。ウソをつかれたと思った直後は、そんな冷静にはいられませんけど)
自分のみたい世界を見るのではなく、ありのままの世界でよしとする
まあ長年「ウソつきは死すべし」と思って生きてきたので、簡単にその思い込みを捨てることができるとは思いません。でも、僕の信じている世界がどうやら現実的ではないと知っておくことも必要なのかもしれないですね。
自分のみたい世界を見るのではなく、ありのままの世界でよしとする。
できるかどうかはわかりませんけど、もしできるのであれば、そっちのほうがはるかに楽そうですもんね😊