おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロです。「依存的な人」「人任せな人」と聞いて、どんなイメージがありますか?多くの人はネガティブなイメージを持つのではないかと思います。ぼくもそうです。でも「依存」することは、本当に悪いことなんでしょうか?
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世間一般的な「依存的な人」に対するイメージ
これはもしかしたらぼくの偏見かもしれませんが、世間一般的な「依存的な人」に対するイメージは、決してよいものではないと思います。
試しに「依存的な人」「人任せ」というキーワードで検索をすると、決して肯定的なページは出てきません。「依存的な人」で検索をすると、真っ先に出てくるのが「【精神科医が教える】他人に依存する人の末路」とかいう記事ですからね。
ぼくの勝手な思い込みも含めてですが、一般的に「他者に依存すること」は、悪いことであり、問題であり、「自立」とは対局関係にあり、さらには未熟なものというイメージがあるような気がします。ひいては「依存的な人」は、社会に不適応な人であるというイメージさえも感じられます。
ところで、文科省のホームページに「新しい学習指導要領等が目指す姿」というのがあるんですが、ここを読むと「一人一人の社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる能力や態度を育む」みたいな表現が何箇所か出てきます。学習指導要領でも「自立した人材」の育成を目指していることがわかることから、世間的にはやはり「依存する人」は歓迎されていないのだろうということが改めてわかりますね。ビジネスの世界でも「自分で考えて行動する」とか「自立型人材」みたいなことが言われますので、いちいち指示をされず自分で考えて動くというのは、社会のニーズでもあるんでしょう。
昔からこの社会はそういう人が求められていたのかというと、決してそうではないと思います。ここからは僕の勝手な推測ですが、個人主義や能力主義が社会の常識となった20世紀中盤以降の話ではないかという気がします。
依存的であることは、本当に悪いことなのか?
ぼくもそうした「社会のニーズ」に毒されているので、やっぱり「依存的な人」に出くわすと、心がざわざわするんですよね。昔もこういう記事を書いたことがありますが、「そのくらい自分でやってくれよ」「あまりぼくに頼らないでほしい」と反射的に思いますからね。
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でも、当社のエモブロは、こうした社会の「常識」に異を唱えることを目的としていますので(そうだったの?)、依存的であることは本当に悪いことなのかを考察してみたいと思います。
例えば、龍谷大の中村尚司先生は「自立とは、依存する相手が増えることである」と述べています。これを引用して、東京大の安冨歩先生は「依存する相手が増えるとき、人はより自立する」としたうえで、自立とは他者への依存からの脱却であるという考えが誤っていることを指摘しています。
これはぼくも最初はピンとこなかった考えですが、東京大の熊谷晋一郎先生の説明を聞けばすぐに納得できます。
“障害者”というのは,『依存先が限られてしまっている人たち』のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて,障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で,健常者は様々なものに依存できていて,障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして,一つひとつへの依存度を浅くすると,何にも依存していないかのように錯覚できます。“健常者である” というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて,その便利さに依存していることを忘れているわけです。
脇田真也・鎌田晋明(2012)「インタビュー 自立は,依存先を増やすこと 希望は,絶望を分かち合うこと」,TOKYO人権 第56号,2012年11月27日発行,東京都人権啓発センター
人はなにかに依存しなくては生きていけません。依存先が少なくなれば、限られた依存先に「隷属」しかねません。本当は人はなにかに依存をしているのだけれども、依存先が多くなるほどそれが見えなくなっている、ということですね。
依存はむしろ社会に適応する上で必要なこと
ぼくはこの説明をとても納得感をもって受け入れられるのですが、どうでしょうか。ぼくは一人会社の社長をやっていますが、収入は取引先に依存していますし、仕事も誰かに作ってもらったパソコンやスマホやOSに依存しています。病気になっても心配をしないで済むのは、国民皆保険制度に依存しているからですし、子育てと仕事が両立できるのは、ぼくが保育園や学校、学童保育などのシステムに依存しているからですね。
ぼく自身がいろんなところに依存し、そこから便益を享受しているからこそ、健康を維持しながら仕事ができているわけですよ。こうしてみると、依存は「歓迎されない問題」ではなく、むしろ社会に適応する上で必要なことだともいえます。ぼくが保育園や学校、学童保育などのシステムに依存できなければ、仕事がままならないわけですから。
何か特定の行為に対する「依存」にだけ反応しているのではないか
わたしたちは様々なものに依存しているというのに、「依存的な誰か」に対してマイナスイメージを持つのは不思議ですよね。ここでさらにぼくの勝手な妄想が続きますが、社会一般にわたしたちが依存を嫌悪するのは、依存そのものをまんべんなく嫌悪しているのではなく、何か特定の行為に対する「依存」だけに反応しているのかもしれません。例えばぼくの場合ですが、まだ20代だったころ、依存的な後輩にイライラして、二言目には「そのくらい自分で考えろ」と突き放していました。なんでイライラしていたかというと、ぼく自身が先輩や上司に頼らずに自分で考えようとしていたからです。こういうと「今村さんの20代のころって自立的でかっこいい❤」と思うかもしれませんが(思わない)、決してそうではなく、自立的でなければコミュニティの中で承認されないと怯えていたのだろうと思います。
ぼく自身は、上司や先輩から承認されたくて、やりたくもない「自分で考える」ことを我慢してやっているというのに、後輩ときたらすぐにぼくに答えを求めてきて「ずるい」と思っていたのでしょう。いや「ずるい」のではなく「うらやましい」と思っていたのかもしれません。
ここからは根拠のないぼくの仮説ですが、私たちは「本当は自分も依存したいけれども、社会的な承認を得るために依存することを我慢しているような場合、その『依存』を悪いものだと認識する」のではないかと思います。
つまりこれは、依存そのものの問題ではなく、自分の心の中の問題だ、ということではないでしょうかね。それの証拠の一つとして「依存しようがしまいが、社会的な承認とは無関係なこと」……例えば国民皆保険制度への依存などは「悪いこと」だと、ふつうは感じないと思います。
「自立型人材」のような社会のニーズを生真面目に信じ込み、本当は自分が辛いのに弱音を吐かずに踏みとどまっているようなことにこそ、「依存は悪だ」と思うのです。自立型人材を目指しているようで、実は社会のニーズとやらに隷属しているんですよ。
依存を積極的な意味として捉え直す
別の観点からも「依存」にまつわるステレオタイプな捉え方を見直していきたいと思います。
誰かに依存をする場合でも、「誰でもよい」ということはないでしょう。例えば先程のぼくの後輩の例ですが、後輩にとっては先輩はぼく一人ではなかったのですよ。他にも先輩はたくさんいたのですが、他ならぬぼくを頼ってくれていたわけです。ぼくに対して信頼感があるからこそ、ぼくにゆだねることができるのではないか、という考えもあるわけですよね。ぼくが「依存的な後輩だ」と勝手にレッテルを貼り、イライラをしていた後輩は、自分を信用してくれていた可能性があります。
その後輩自身も、自己信頼感が高い人だったのかもしれません。ぼくのように自信がない人間だと「誰かに依存したくても、ぼくなんかが受け入れてもらえるはずがない」という思いこみがあります。自分に自信がないと、他人に頼ることもできないんですよね。でもその後輩はぼくを頼ってくれたわけで、「きっと今村さんにお願いすれば、自分を助けてくれるはずだ」という自己肯定感と、ぼくへの信頼の両方を持っていたのかもしれません。それなのにぼくときたら「そのくらい自分で考えろ」と無下に突き放してしまい、本当にダメな先輩でした。きっとその後輩も、ぼくに失望したことでしょうね。
このように「依存される」ことも肯定的に捉えれば、それは他人との良好な関係を保つきっかけにもなりうるわけですよ。そういう意味では、成熟した依存性は、他者との良好な人間関係を維持するためにはむしろ必要なものだとも言えるかもしれません。どうでしょうかね?