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【当社のご近所紹介】南北朝時代の古城 岡本・山路城を探して

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おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。

最近、城めぐりにハマっています? 城と言っても大阪城や姫路城のような有名どころというより、近所の徒歩圏内にある古城跡めぐりなんです。歩いていけるし人もいないし、なによりもお金もかからないということもあって楽しんでいるのですが、今日紹介するのは南北朝時代の古城で、東灘区岡本にあったといわれる山路城です。

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山路城について

「山路城」(やまじじょう)が文献でみられるのは、太平記第38巻が初見のようです。太平記は全40巻なので、かなり最後のほう、足利義詮や細川頼之などの時代(西暦1360年前後)の記述に山路城が出てきます。それによると(超要約ですが)、楠木氏(楠木正儀?)と和田氏の南朝軍が、摂津国守護の赤松氏を攻めたとき、山路城で小競り合いが起きたと書かれています。「本山村誌」によると、赤松円心の嫡男である赤松範資の城だろうと推定しています。

山路城がどこにあったのかは定かではありませんが「本山村誌」では「田中字鎌田付近であるという説と岡本字六萬付近であると言う説と二説あって、いずれを是とすべきか、にわかに決定し難い」とあります。田中字鎌田付近と岡本字六萬付近がどのあたりかというと「本山村誌」の小字マップを引用しましょう。

現在の地図ではどのあたりでしょうか。

また、近世の地誌「福原鬢鏡」や「兵庫名所記」などには「片町の西側に山路城があった」と記していることが確認できます。片町とは今の天井川の西側にあたる場所と記されています。「本山村誌」ではまた、付近に「的場」「池ノ内」「手水」といった字があるのと考え合わせると、旧字の鎌田付近(現在の本山中学校あたり)に当たると言い切っています。

さらに「本山村誌」では「田中付近は全く平地であって要害とすべきところはないから、平時の居館跡である。さすれば今、一箇所赤松氏の城址と伝える岡本部落の五百山(醫王山)を、戦時における要害とみるべきではあるまいか。」としています。

五百山(醫王山とも。漢字から推測すると、よみはイオヤマですかね?)というのは、現代の地図では見当たらない地名なんですね。「本山村誌」の地図を引用すると、どうも岡本八幡の西北にあたる場所ではないかと思われます。いまでいう岡本公園(梅林公園)の上あたりか、もしかしたら二楽荘跡(現在の霊法会敷地)のあたりのことかもしれません。

ちなみに、wikipediaの本山(神戸市)の記述には、次のような表現があります。

室町時代この地には山路城という城があった。『摂津誌』(1734並河誠所)には「山路城 在㆓ 田中村㆒ 観応年間赤松範顕トス」とあり摂津守護赤松氏縁の城であった様だが詳細は不明。江戸時代には城跡があったようだが鉄道建設の際に崩されたという。現在の地形は微塵も痕跡を残していないが、旧字名の池ノ内・城ノ前・的場などが城のあった事を偲ばせる。現在の本山中学校(岡本三丁目)付近が本丸で手水公園(田中三丁目)が二の丸であったとも言われている[3][4]。これは普段の城であり、「戦時の城」が北方の五百山にあったと伝えられ、山が開発された時に甲冑と古井戸が発見されたという[4]

二の丸跡?と言われる手水公園

この説に基づいて、現場を訪ねてみました。まずは手水公園から。早朝散歩のついでの探索なので真っ暗です?

石垣はありますが、これは絶対に当時のものではありませんね(当たりまえ)

手水公園はいたって普通の公園です。大きな楠?の木があります。大きいので樹齢もそこそこだとは思いますが、これもさすがに南北朝時代のシロモノではないでしょうね。

しかし「二の丸跡」と言われているようだけど、曲輪を重ねるような城郭設計を、戦国時代や近世ならまだしも、南北朝時代にしてたのかなあという気はします。

本丸跡と言われる本山中学校

そして本丸跡と言われる本山中学校です。城の痕跡はなにもありませんね?

一応正門も写真に収めましたが、どこから見ても普通の中学校です。まあ「何もない」ということを確認するということも、城めぐりの醍醐味の一つだと思います。

本丸と二の丸とを合わせると、結構大きな城(居館)のように思います。ざっとみて200m四方といったところでしょうか。位置的にもほぼ西国街道に面していたのでしょうから、そういう意味では近世の平城っぽいなあと思います。

隣村の「本庄村史」による考察

現場を歩いて感じたことは、どうも後世の解釈が近世城郭をイメージしてるっぽいなあということでした。ということで、他に資料がないか……と見てみると、本山村の隣村である本庄村(現在の東灘区深江・青木あたり)の村史には、隣村にもかかわらずかなり詳細な考察がありました。まず「本庄村史」は、太平記の記述から次のように考察します。

(太平記の)記述で注目されるのは、次の二点である。第一は、楠木軍が山路城に直接妨げられることなく兵庫に進軍したこと、第二は、赤松軍は山路城から楠木軍を遠巻きに眺め、遠矢を射る野伏を城から出し合戦に及んだことである。この二つから考えて、山路城は東西交通路からある程度距離をおいたところにあり、交通路からの攻撃を防御しやすく、時には交通路に兵を出すこともできる位置にあったと想定するのが妥当であろう。

としたうえで、太平記における山路城は、山裾地形を利用した城ではないかと考察しています。たしかに西国街道に隣接している200m四方ほどの城を敵の大軍が無事に通過するというのは無理がありそうです。さらに「本庄村史」では、芦屋市春日町に南北朝時代の城砦址がある(古墳を利用したもの)ことを引き合いにだし、山路城も(平地にあったとしても)そうした砦の一つであったのではないかと考察しています。

まあ、太平記も軍記物なので、どこまで正確な描写なのかはわかりませんが、隣村の考察のほうが納得感がありますね。

城の遺構はなくても、城についての文献や考察、そして現場に立つことで、そこにはないはずの城が立体的に見えてくるように思えます。これなので城めぐりは楽しいんです?

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