おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
先日、考えさせられるツイートを見かけました。ハートネットTVという番組の投稿に、障害者の方に対する差別的な発言があったのです。その発言を擁護するつもりはありませんが、僕にも生産性で他人を値踏みしたくなる気持ちがあるということを認めたいと思います。
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ハートネットTVの差別的発言を取り上げたツイート
仕事のできない年配社員をバカにする若手社員の僕
くだんのツイートの中に「生産性のない障害者を守ることはできない」という投稿内容がありますね。共感はできませんが、これと同じような言動を僕も過去にしていたことを思い出します。
僕が新卒で入社した会社での出来事ですが、この会社は世代間の断絶が大きかった会社ではないかと思います。というのも、採用育成担当の人事課長自らが、僕たち若手社員に向かって「うちの会社の、使えない年配社員のようになるな。お前たちが会社を変えろ」というようなことを、日ごろから言うような会社だったんですよ。
おりしも時代は90年代後半。ちょうどWindows95によって一気にパソコンが職場に広がった時期。僕たち若手社員はパソコンに抵抗はありません。しかし年配社員はそうではありませんでした。見積書ひとつも作れない、メールも送れない、ましてやパワーポイントなんて使えるはずもない。パソコン一つもろくに触れない年配社員を見て、僕たちは「仕事もできないオジサンども」と、陰で笑っていました。
仕事ができないと職場いじめにあっていた年配社員が自殺した
そんな中でも特に「仕事ができない」と職場で大勢から無視をされていたり、格別に厳しくあたられていた年配の社員が自殺をしたことがありました。正確に言うと、そういう仕打ちを苦にしたのか、その人は会社を辞めてしまったのだけれども、辞めて半年くらいたって自殺をした、という話が耳に入ったのです
僕もその年配社員を陰で笑っていた一員でした。その人は、僕に話しかけてくることもありましたが、僕はあまり関わらないように愛想笑いでその人を避けるような態度をとっていました。僕自身がいじめに加担したと言ってもいいでしょう。
その人が自殺をしたと聞いたとき、「僕のせいかもしれない」という思いがよぎりました。おごりかもしれませんが、せめて僕だけでも仲良くしていれば、年配社員は自殺なんかしなかったかもしれないのに、とも思いました。
僕が彼の自殺の引き金を引いた一人なのだ、という気持ちをぬぐうことができず、良心の呵責に苦しみました。こんなことならば、陰で笑ったり、避けたりしなければよかった――と。
仕事のできる・できないでその人の価値は決まるのか
僕は、その人を「仕事ができない」という一点で見下していた訳です。つまり職場において生産性がないことを理由に、差別をしていた訳ですね。しかし、仕事ができないからといって、そのような差別は正当化できるのでしょうか?そんなことはあってはならないと今では言えます。
仕事ができるできないということと、その人の価値は全く無関係です。障害者だから生産性で値踏みをしてはいけないけれど、仕事ができない人であれば値踏みをしてもよい、ということはないはずです。どんな人でも人間としての尊厳は尊重されなければなりません。
障害者とは違って、会社という組織は営利目的で存在しているのだから、社員である以上は生産性を求めるのは当然だという声もあるでしょうか。それも一理あるような気がしてきますが、この理屈がいじめや無視、差別の理由として使われてはなりません。
僕も生産性で他人を値踏みする人間である
このツイートを見た瞬間、僕には当の投稿主を笑ったり嘲笑したりする権利はないという思いがよぎりました。なぜなら僕も、その側の人間だったからです。
もう今はそれを克服しているかというと、それも断言はできません。今でもスーパーのレジに並べば「もっとテキパキとレジ打ちできないのか」と、心の中でレジ担当者の生産性を値踏みしている自分に気づくことがあります。
経営者同士の集まりに参加をすれば、自分よりも売上や利益率の低い会社の経営者を見ると、理由もなくホッとする(いや「勝った」とさえ思う)自分に気づくこともあります。
僕は20代のころ、年配社員の自殺で自責の念に駆られたにもかかわらず、今でもやはり、生産性で他人を値踏みすることがやめられないんですよ。そんな卑怯な人間である僕は、この投稿主と同類です?
(当のテレビの投稿主の発言を容認しているわけではありません。むしろ、自戒も含めて否定しています)
生産性を盾に他人を値踏みすることを許してはいけません。一方で、値踏みをする人を批判する僕自身も、本当に値踏みなどしないと言い切れるのか――ということは忘れずにいたいです。