おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
2年ぶりくらいに「当社のご近所探索シリーズ」をやりますが(本人もその存在をすっかりわすれていた💦)、今回は西宮市の越水城址を探索しました。戦国大名であり、信長以前の「天下人」でもあった三好長慶の居城です。
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越水城址の場所と沿革
越水城址は、阪神西宮から北へ約1km、JR西宮からは北西へ約1.5kmの地点にあります。現在は西宮市立大社小学校になっています。
後述する越水城址の案内板によると、観応の擾乱のときに陣所があり、その後(応仁の乱後)に瓦林城主の瓦林正頼が築城したと言われています。両細川の乱で争奪戦が繰り広げられた後は、三好政権の本拠地となっています。信長が三好三人衆を破った跡には将軍足利義昭が入城したが、信長の命により越水城は廃城となったそうです。畿内の重要拠点ですね。
戦後まもなくの航空写真を見てみましょう。このあたりは大社村と呼ばれていたようで、戦後まもなくのころには既に住宅地が広がっています。一方、現国道171号線あたりは田畑が広がっていました。
越水城址(大社小学校)を歩く
越水城は結構大きな城だったようですが、遺構はほとんどなく、大社小学校に案内板がある程度です。大社小学校が本丸だったかどうかもわかりませんが、とりあえず大社小学校のあたりを探索。
石碑と案内板がありました。
案内板をクローズアップします。沿革が書かれています。観応の擾乱のときに陣所があったといいますが、どんな資料に残っているんでしょうかね。まあ、打出浜の戦いの戦場に近いので、ここに小高い丘陵地であり西国街道のそばにあるこ後に陣所があっても不思議ではないですけどね。
このあたりの地形図を見てみましょう。台地の端っこですね。西側には谷筋が二本あって(現、万葉苑筋と、現、夙川)堅牢ですね。東側と南側は切り立った丘の上にありますが、ここは土木・建築を重ねて防御施設を構築していたことでしょう。搦手は北側でしょうか。
大社小学校から東側を望みますが、まずまずの高低差です。
越水城址の遺構?「越水井戸」
付近は住宅地として開発されているので遺構はほとんどありませんが、当時から使われていると伝えられている井戸があります。大社小学校から東へ約200mほどのところです。
トタンで覆われた掘っ立て小屋のようになってますね。
看板に「越水(小清水)の井戸」と書いてますね。この井戸、今も現役で、阪神淡路大震災のときには近隣の水ニーズに応えたのだとか。
覗いて写真もとりましたが、早朝だったのでよくわからない写真に💦
越水城の郭跡か?西田公園
ところで越水城址から300mほど南へ行ったところに、西田公園という公園があります。ここもこんもりとした丘の上にあるんですよね。
丘の上は公園になっていますが、まずまず平らな地形です。
地形図を見ると、西田公園は台地の先端に位置していますね。確信はありませんが、こういうところにも防御施設が構築されていて不思議はないですね。位置的には西国街道を監視できる絶好の場所なので、なにかがあったと思います(多分)。