おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
今日で阪神淡路大震災から28年です。当時ぼくは神戸市須磨区で被災したのですが、自分の記憶の整理をかねて、当日のことをできる限り思い出して言語化してみました。
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揺れた瞬間の恐怖心(でも目が覚めなかった)
あの日は、ぼくが成人の日を迎えた翌々日のことでした。揺れがきたのは早朝だったので、揺れがきたその瞬間は寝てたんですよね。
でもあの瞬間は、揺れで目が覚めなかったんですよ😅夢の中で、何やら恐ろしいことが起きているということは自覚していて、早くおさまらないかなあと夢の中で考えていたんですよね(あの揺れで起きないなんておかしい)。やがて揺れは次第に小さくなっていき、夢の中で「ああ、よかった」と思った時、ぼくの部屋の電話が鳴ったんですよね。(電話の主は、当時付き合っていた彼女でした。その時の話は3年前に記事にしてます)
正直なところ、揺れた直後には地震の重大さに気がつかなかったんですよ。というのも、ぼくが当時住んでいたニュータウン(名谷)は、神戸市内と言えども被害らしい被害はなく、当日の朝は犬の散歩をしている人やジョギングをしている人がいたくらいでした。被害はないけど停電しているので、状況が全くわからなかったんですよね。(学生だったぼくも、揺れて目覚めた直後は、その日に予定されていたフランス語の試験対策やってました)
コトの重大さに気がついたのは、おそらく午前7〜8時くらいになってからだと思います。同じマンションに住む同級生がラジオを持っていて、そこでようやく情報に触れたんですよ。今思うと当事者意識が低いと思いますが、とりあえず電車は全て運休だということがラジオでわかり(ラジオ関西をつけていたと思う)、授業とテストがないことを喜んだんですよね。危機意識なしのダメ人間です。ただ「電車って地震で止まるんだ……」と驚いていたところに、その後入ってくる情報にさらに愕然するわけです。
とりわけ理解不能だったのは、
「……○○区の○○病院では、六階建ての建物が五階になっています」
とラジオで報じていたことでした。想定外の報じられ方に、ラジオを一緒に聴いていた同級生と顔を見合わせて考えるわけですよ。六階建ての建物が五階になっていたら、無くなった階にいた人はどうなっているの?って。この時ようやく、ただ事ではないと気がついたわけです。
当日の兵庫区・長田区のある地域では
ぼくが住んでいた地域の電気が復旧したのは、正午近くだったと思います。それまでは近隣に住んでいる友人の安否確認をしていました。電気が復旧したので、友人たちと部屋に戻ってテレビをつけたんですよ(たしかサンテレビをつけたはず)。すると、大きく倒壊した阪神高速や、天井が崩れた三宮のセンター街の映像が映しだされたんですね。テレビでは「神戸震度6」というテロップが大きく映しだされていたのを覚えています(当時は震度6が最高震度だった)
その後、当時付き合っていた彼女を救出しに、バイクで兵庫区と長田区の境のあたりまで行きました。西神戸有料道路の東行(ニュータウンから長田方面)は源平大橋あたりから渋滞していて、車の脇をすり抜けながらでないと前に進めない状態でした。夢野台高校のあたりから被害の酷さが顕著となり、上沢通や七番町のあたりは火災の煙に満ちており、完全に崩れた家屋、狼狽する人、泣き叫ぶ人、道路脇でうずくまる人などがたくさんいて、たかだかバイクで20分くらいの場所なのに、ニュータウンで被災した自分とは全く別次元の被災の状況であることに理解が追いつきませんでした。
不安に包まれた夜
その後、近隣に住む友人たち7~8名ほどがぼくの部屋に集い、テレビを見ながら、火災の動向に気をもんでいました。上沢や七番町の様子を見ていたので、火災が迫ってきたら避難所へと移動するつもりでした。この時(夜7時か8時ごろ)に、大阪ガスの人がきて、ガスを閉栓したことを教えてくれました。(一軒一軒まわっていたのでしょうか。だとするとものすごく大変なことです)
テレビを見ながらみんなで憤ったことがいくつかあって、フジテレビが燃えさかる街の映像にあわせて、ビートルズの"Let it be"を流していたんですよ(怒)。"Let it be"の意味わかってんのか!?って、みんな怒ってましたね。基本的には全国ネットの報道だと、細かい地名・町名を出してくれないので、どこで火災が起きていて、火災がどの方向に延焼しているのかがまったくわかりませんでした。全国ネットだと、被災者のほしい情報を報じてくれないんですよね。
この時のぼくの部屋の状況としては、電気はあるが水とガスが使えませんでした。料理はできなくはないですが、水が出ないと洗い物ができないので、ご飯を炊いておにぎりを作り、アルミホイルを敷いて冷凍していた肉を焼いた記憶があります。また揺れて断水するまでは時間が多少あったので、浴室に水を貼りましたが、これは飲料というよりトイレ用として確保しなければなりませんでした。水の確保については、これから1週間ほど、ずっと悩まされることになりました。(1週間ほどたって、当時の住まいから200mほど離れた小学校で水道が使えるようになったので、それでだいぶ助けられはしましたが)。電話は輻輳し、ほとんど使うことができませんでしたが、何度か電話がかかってきたように思います。(大学の学生課から安否確認の電話があった。当日ではなかったかもしれませんが)
余震の恐怖心と、当日に上沢や七番町で見た光景が忘れられず、その日の晩はほとんど眠れませんでした。夜が来るのがこんなに怖いなんて思いもしませんでしたよの。それからしばらくの間は、夜になるのが恐ろしかったものです。
地震って本当に怖いですね。こうして言語化すると当時の気持ちを思い出してきますが、ふだんはその「怖さ」を忘れてしまいがちです。われわれは常に備えておくべきから、「思い出す」ということはとても重要なことですね。辛いことではあるんですけど。