おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村です。
週末のエモブロです。大げさで、スピリチュアル要素が感じられるタイトルだけれども、悩みがちょっとだけなくなる経験をしたので、シェアしたいと思います。
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僕には旧街道歩きというオッサン臭い趣味がある
唐突ですが、僕は旧街道歩きというオッサン臭い趣味があります。なんで好きか?というのは今日の趣旨ではないので触れませんけど、近場の街道は相当歩きこんでいる僕。
ある時、西国街道を京都方面へと歩いていたんですよ。場所は箕面のあたり。その近辺の西国街道は、現在の国道171号線とほぼ同ルートを通る旧街道なんですが、西国(中国地方や九州など)の大名が、参勤交代で通った道であり、まあ昔の主要幹線道路だと思ってもらえたらいいかな。
箕面のあたりって、旧街道の風情をかなり色濃く残しているんですよ。こんな感じで、白壁の家があったりして。
うつ状態が真っ盛りのころに街道を歩いたら……
ちょうどこの頃は、うつ状態が真っ盛りのころだったんですよね。せっかくの趣味の街道歩きなんですが、イライラすることや不安に思うことにモンモンとしながら歩いていたんですよね。イライラや不安に囚われていると、周りの景色もあまり目に入らないんですよね。
ところが、この箕面のあたりの風景はちょっと違ったのかもしれません。白壁の家の合間には、田畑があるんですが、ちょうど季節柄、彼岸花が咲いているのを目にしたんですよ。こんなふうに。
今までモンモンとして、光景などロクに観ていなかったんですが、この景色に一瞬で心が奪われたんですね。
時空と一体となった不思議な間隔に
断っておくけれども、僕はスピリチュアルな話は苦手なので、そういう話をするつもりはない。でも、できる限りその時の心情を、具体的に言語化したいと思います。
一言でいうと、僕という存在が、広大な時空の中にいるような感覚を憶えたんですよね(大げさ)。
ところで西国街道というのは近世(江戸時代)あたりの呼び名なのだけれども、もともとは山陽道という名で、平安時代から存在していた道。まあ、平安時代の道と現在の道が完全一致しているわけではないのだろうけれども、いにしえの人たちが、この近辺を往来してきたのは間違いないでしょう。
1,000年以上も人が往来してきた道を、今僕も歩いている。そう思うと、今まで三次元的に見えていた風景に、時間という概念が加わって、四次元的に見えてきたんですよね。
平安時代にここを通った人には、どんな悩みがあったのだろうか。
鎌倉時代にここを通った人にも、葛藤はあったのだろうか。
室町時代にここを通った人の中にも、自分で自分を肯定できずに悩んだ人がいただろうか。
江戸時代の人はどうか。
明治時代は、大正時代は……
という感じで、とても広大な時空の中に、放り出されたような、引きずり込まれたような気持ちになる。
すると、いつの間にか悩みを忘れちゃうんですよね。そういうことを考えながらたたずんでいると、それまでモンモンとしていた悩みや不安が、すっかり消えているというか。
根っこから消え去ったのではなく、この瞬間だけ消えた、という意味だけですけどね。
広大な時空の中に入りきっている時は、とても満たされたような気持ちになりました。自然と一体になっているだけでなく、時間や歴史とも一体になっているような感じといえばいいんですかね。
僕の悩みは自然や悠久の歴史の中ではチッポケなものだ、などとわかったようなことを言うつもりはありません。どっちかというと、僕はの瞬間、悩みさえもひっくるめて、自然や歴史の一部になった、というような感じでしょうか。
なかなか言語化が難しいのですが、あとにも先にも、こういう不思議体験をしたのは、この時、箕面のあたりを歩いている時だけのことでした(箕面すごい)。まあでもその後、やっぱりまた悩みや不安にモンモンとしながら歩くことに逆戻りをするんですけどね😅
ただし、悩みや不安から開放されたこの瞬間に、広大な時空の中を生きていると満たされながら感じたものは、その後も僕の心のなかに残り続けていたりしています(今でもその時の感覚を鮮明に思い出すことができます)。