おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。
週末のエモブロ&久々の子育てブログです。うちの娘氏が1歳くらいのころ、家族3人でお出かけすると、娘氏が奥さまに抱っこをせがむことがあるんですけど、なぜかイライラした気持ちになったんですよね。心がとても狭いでしょ?
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自分が娘氏の抱っこをしないと気がすまない
今となってはもう8年ほど前の昔のことですけど、うちの娘氏がベビーカーに乗ってた頃の話。うちの娘氏はなぜかベビーカーに乗りたがらなかったんですよね。乗るより押すほうが好きな感じで。でもそれだと目的地に着くまでめちゃめちゃ時間かかるじゃないですか😅 そういうときは半ば無理矢理に抱っこしようとするんですけど、うちの娘氏は僕が抱っこしようとすると嫌がってたんですよね。で、僕ではなく、配偶者様に抱っこをせがんでました。
「仕方ないな~」と配偶者様が抱っこしてあげるんですけど、僕はそれを見てイライラするんですよ。イライラしながら、30秒に1回は
「ねえ、娘氏?パパが抱っこしてあげようか?」
と娘氏に尋ねます。でもイヤ!と一言だけの娘氏。これにイライラしながらも、また30秒後には
「ねえ、娘氏?パパが抱っこしてあげようか?」
と娘氏に訪ね、断られるの繰り返しなんですよね。自分が娘氏の抱っこをしないと気がすまないというか、抱っこもロクにできない自分に腹がたつというか。
イライラの背後に不安あり
これは僕が勝手に思っていたことですけど、僕は父親として、夫として、娘氏を抱っこしなければならない、父親だから抱っこすべきだという気持ちがあったんですよね。
男性の方が力持ちでしょ?反対に、僕は手ぶらで配偶者様が娘氏を抱っこしてあげていると、世間様からは
「女性に子どもを抱っこさせて、自分は手ぶらで、夫の責務を果たしてないね、あの人」
と後ろ指を刺されるのではないかという不安があったんですよね。
もちろん世間様だけではなく、配偶者様からそう思われるのではないかという不安もあったんですけどね。だから男で夫の僕が「やるべきだ」と強固に思い込んでいて、でもそれに応えてくれない娘氏や、応えられない自分にイライラしていたんですよ。旧来のものとは異なるかもしれませんけど、これもある意味でジェンダーロールに縛られていたんだと思います。
イライラするときは、その背後に必ず別の感情がある
イライラするときは、その背後に必ず別の感情があるんですよね。一つは不安。そして、その背後には期待。
まず僕には「よい父親と見られたい」という期待がありました(今も結構あります)。この期待に反する出来事――つまり配偶者様が抱っこをして僕が手ぶらで歩く――が起こると、僕には「悪い父親と見られたらどうしよう」という不安が生じる。この不安を解消するために、カリカリしながら「抱っこさせて!」とイライラの感情を露わにしてたんですよね。
例外はあると思うけれども、イライラのメカニズムって、こういうものでないかと僕は認識しています。見られたい自分という期待が実現できないことに不安を覚え、その結果としてイライラが生じるというか。
ここでいいたいのは「なにかに期待することがダメ」ということではありません。その期待が過剰であることが問題なんですよ。30秒に1回もの頻度で「抱っこさせてよ!」と尋ね続けるという僕は、やっぱりどこか尋常じゃない何かを抱えているのだと思います。
ただし、不安や期待を下げるということはそんなに簡単にできることではないですよね。だって、僕の意志にかかわらず、期待や不安な気持ちは沸いて出てくるのですからね。急にはできないけれども、期待を下げる入り口は、自分が「期待していて」「不安である」ということを認めることかなあと思います。どうやって認めるかというと、例えば「期待している」「不安である」ことを口に出すことですかね。「私はよい父親に見られたいと期待している」とか「私はよい父親に見られないことが不安だ」とかですね。
こういうのは肯定的自己暗示(アファメーション)の一種だと思っていて、私もイライラに支配されそうなときには、必ず自分に対してつぶやいています。つぶやいてみればわかるけれども、最初はこういう気持ちを認めるのは抵抗があるんですよ。ただし、勇気を出してつぶやいてみると、存外にすっとする自分に気づきます。自分のもつ期待、不安な心を、唯一無二のかけがえのない自分自身に認めてもらえたように思えるからですかね。
今では娘氏も9歳になり、大人に近い分別もかなり身についてきたので、こういう出来事はないんですけど、当時の僕にとってはかなりキツイ出来事でした。誰だってイライラした感情をもつものですし、自動的に湧いてくる感情そのものはどうしようもないものです。でも、その背後にある自分の期待と不安を認めると、自分が楽になるってことはこれからも覚えておきたいですね。