補助金に関連する当ページの情報について
当ページの記載事項に基づいてすべてを判断せず、必ず公募要領を確認してください。当社ページの見解に従った結果、不採択となった場合も、当社は責任を負いかねます。このページの情報や見解は、予告なしに変更することがあります。

ブログ

【当社のご近所紹介】弥生時代の軍事拠点?高地性集落「会下山遺跡」

https://imamura-net.com

おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。

完全に自己満足である【当社のご近所紹介】ブログです。当社から徒歩30分くらいのところに「会下山遺跡」(えげのやまいせき)というところがあります。弥生時代後期の高地性集落と呼ばれています。この遺跡、軍事拠点だった可能性があるんです。

スポンサーリンク

会下山遺跡とは

2,000年前野弥生時代の高地性集落跡です。遺跡は会下山全域に広がっており、竪穴住居跡や祭祀場跡、焼土坑あと(火焚き場跡)、墓地、堀跡などが発掘されています。

標高約200mの山頂付近にあるS地区は眺望が大変良く、遠くの地域まで見渡すことができます。

高地性集落は軍事拠点?

諸説はあるのですが、高地性集落は軍事拠点であったという説があります(結構有力視されている説です)。高地性集落は見晴らしがいいですし、高いところは防衛に有利ですからね。中世の山城と同じです。

会下山遺跡のある芦屋市の資料によると、こんな解説がありますね。

会下山遺跡は、弥生時代中期後半から後期前半(紀元前2世紀~紀元1世紀)まで継続しており、見張り場、逃げ城、公会・交易、大規模集住、交通拠点、祭場など、さまざまな性格や役割をあわせ持っていたのではないかと考えることができます。

弥生時代後期は戦乱の時代です。「魏志倭人伝」や「後漢書東夷伝」などの中国の歴史書には、紀元2世紀後半ごろに日本で「倭国大乱」という内戦時代があったとされています。当時の日本では、大和、吉備、山陰、九州北部などに大規模勢力があり、争っていたと言われています。時期的にこの会下山遺跡は倭国大乱とは関係はなさそうですが、戦闘があった際の見張り場や逃げ城としての可能性があったのかもしれません。

というわけで「軍事拠点だったのではないか」という観点で、今回は訪問してみました。

遺跡の入り口

阪急芦屋川駅から徒歩20分のところに、会下山遺跡入り口があります。芦屋市聖苑の入り口すぐ東側ですね。入り口から登山道を徒歩約8分で、遺跡に到着します。朝の散歩に丁度いい距離ですね?

遺跡北限の堀跡

遺跡の一番奥(北側)には堀跡があります。

2,000年前のシロモノなので、正直どれが堀跡なのかはわかりません? 現在の地形としては、下記の写真のように、尾根に沿って道があるので(両脇や斜面)、ここに堀があるとたしかに障害になるだろうなという気はします。ちなみに会下山遺跡から谷を挟んで反対側にある城山(中世に鷹尾城があったところ)も同様の堀切があります。

山の下(市街地側)から攻められた時、この堀を渡れば(橋を落とせば)、山に逃げ込むことができそうですもんね。

S地区祭祀場跡

会下山遺跡で、最も見晴らしの良い場所です。

こんな感じの眺望です。大阪平野と大阪湾が丸見えです。

でも正直なところ、眺望としては芦屋の城山のほうがいいですね。この会下山遺跡は、大阪方面はよく見えますが、神戸中心部方面は、西側の尾根が障害となって眺望はいまいちです。まあ、城山のほうにも高地性集落はあったのかもしれません。(のろし等で連携をしていたのかも?)

住居跡

遺跡には住居跡もたくさんあります。最も高い位置にそれなりの規模の住居跡があったということですが(F地区)、中世の城でいうところの天守閣みたいな役割だったのかもしれません。天守閣は住居ではありませんけどね。最も高いところにそれなりの規模の建造物があったのは、見晴らしや防御力を考慮してのことかもしれません。

そういや水はどうしてるの?

生活の基盤であったと思われる施設の跡もあるんですよ。例えば廃棄場跡。

倉庫跡と思われるものもあります。(建物は復元です)

火焚き場跡。火を使う場所は、住居から離れた場所に別途作っていたんでしょうかね(火災による延焼をふせぐため?)

気になるのは水はどうしていたのかということです。ここは高台ですから、井戸を掘ることは当時の技術では不可能でしょう。六甲山の大部分は花崗岩でできていますからね。

水はおそらく、麓の谷から汲んできていたのだと思います。そういえば会下山遺跡の入り口の谷筋には、今も川があります。

ここから徒歩8分かけて水を汲んでくるのは、現代でも結構たいへんなことです。そういうことを考慮すると、この高地性集落は、定住していたというよりも、なんらかの時(非常時や祭事の際)に使われていた施設と見る方が自然なんでしょうね。どうもこの集落で耕作をして日々の生活を送っているとは思えません。六甲山の麓は扇状地なので水も豊かですし、海の幸も採りやすいですからね。

軍事拠点もしくは災害時の避難所、兼祭事場?

こういうことから考えると、芦屋市の資料にあるように、六甲山のふもとや瀬戸内海を行き来する人・モノの見張り場、非常時の逃げの城であったのでしょう。もしかすると災害時の避難所だったのかもしれません。昭和時代にも2度、大水害が起きましたが、六甲山の麓は災害が多いんですよ。水害で海辺の集落に損害が生じた際、一時避難的にこの高地性集落が使われたのかもしれません。

いろんな可能性が感じ取れますね。歴史にはロマンがあります?

スポンサーリンク

スポンサーリンク

最近の人気記事

1

「事業再構築補助金」は制度開始から3年目を迎えました。多くの中小企業に知られるようになった事業再構築補助金ですが、このページでは2023年の制度の全容を10分でわかるようにまとめて解説します。 「事業 ...

2

「ものづくり補助金」は制度開始から11年目を迎えました。中小企業政策で最もよく知られているといってもいい「ものづくり補助金」ですが、このページでは2023年の制度の全容を10分でわかるようにまとめて解 ...

3

おはようございます!マネジメントオフィスいまむらの今村敦剛です。 先日、納税地の所轄税務署から「消費税課税事業者届出書の提出について」という文書がきました。個人事業主は、ある期間の課税売上高が1,00 ...

-ブログ

© 2024 Management Office Imamura Ltd.